鞆隼人様へ(往復書簡3)

「おばあちゃん!」と、少女は大声を上げました。「ねぇ、わたしをいっしょに連れてってくれるの? でも……マッチがもえつきたら、おばあちゃんもどこかへ行っちゃうんでしょ。あったかいストーブや、ガチョウの丸焼き、大きくてきれいなクリスマスツリーみたいに、パッと消えちゃうんでしょ……」少女はマッチの束たばを全部だして、残らずマッチに火をつけました。そうしないとおばあさんが消えてしまうからです。(『マッチ売りの少女』アンデルセンより)

 鞆さん、お便りありがとうございました。お便りを読み、なぜだか僕の頭の中で「マッチ売りの少女」が暮らしはじめました。少女の境遇を思うとさっさと出て行ってくれとは言えず、鞆さんの言葉の切れ端を丁寧にほぐし編み物をする少女の様子をしばらく見ることにしていました。
 往復書簡がはじまったそばから突拍子もないことを言って申し訳ない。けれどもそこは居酒屋の哲学者ということでお許しください。酔っぱらいは脈絡がない話を嬉々とするものです。いや、脈(論理)を超えながら喋るゆえにもしかしたら新しい地平へと私たちを誘ってくれるかも知れません。
 マッチ売りの少女は鞆さんが語ってくれたおばあさんに少し似ています。どちらも帰りたくても帰れない、そんな境遇に置かれています。少女はマッチを売ってお金を持ち帰らなければ家に帰れません。もちろん今の日本にいれば、マッチに火をつけて立ち現れる幻影をYoutubeで配信してがっぽり広告収入を得ることができたでしょう。でも僕はマッチ売りの少女はきっとそのようなことをしなかっただろうと思うのです。そもそも幻影は〈帰れない〉からこそ立ち現れるものであって、帰れないということは売れないということ、売れないということは「ありがとう」という相手が誰もいなかったということ、そしてマッチ(商品)に火をつけるとは売ることを放棄すること、売ることを放棄することとは帰ることを放棄すること、自らが「ありがとう」と言える機会を放棄すること、要するに関係を求めながらもあらゆる関係から遠ざかっていってしまうという、そうした一連の悲劇の流れの終着点として少女の目の前に幻影が立ち現れたわけです。そうであるならば、YouTube配信のために少女がマッチに火をつけたところで、単に赤々ときれいに燃えあがる炎が映し出されはすれど、少女も私たちも幻影を見ることはできないはずです。なぜならばそこには一連の悲劇の流れが介在していないからです。悲劇があるからこそ喜劇が成り立ち喜劇があるからこそ悲劇が成立する。喜劇の奥には悲劇の、悲劇の奥には喜劇の種子が時を待っているもの。そういう意味では私たちの社会は喜劇だけの社会になってしまったように思います。悲劇を排除した喜劇だけの社会、悲劇をポケットに携えていないがゆえに薄っぺらい喜劇、薄っぺらいからこそあくことなく喜劇を追い求めていく…。
 さてこのまま厭世主義な愚痴を進めて行ってはマッチ売りの少女に嫌われてしまいます。もう少し少女に寄りそっていきましょう。はじめにマッチの炎が幻影を立ち現れさせるプロセスを、帰ることを放棄すること、ありがとうを放棄することと少し乱暴に書きました。けれどもそれは売ることを忘れていく、帰ることを忘れていく、ありがとうを忘れていく、そのように言ったほうが正しいかもしれません。つまりそれは回帰ということです。売ることや帰ることやありがとうがそこから生まれるであろう場所への回帰、有が無に無が有に昼が夜に夜が昼に反転を繰り返す場所。
 回帰は帰って行くことです。けれどわかるようでわかりません。いったい「帰る」とはどういうことなのでしょう。誰でも必ず帰ろうとします。人だけではありません。動物も魚も昆虫でさえ帰ろうとします。それはとても不思議なことです。話が大きくなってしまいますので人に限って「帰る」ことを考えてみると、用事が済んだら帰る、そのように今まで納得してきました。けれど介護をされる方々と仕事でお付き合いするうちに、それだけではなさそうだと思ようになりました。鞆さんが話してくれたおばあさんもそうですね。「どうやったら帰れるの?」「いつ帰れるの?」と。マッチ売りの少女は帰れるための理由は明確でした。マッチを売ってお金にしさえすればとにかく帰ることができたのです。けれども一箱も売れないという現実は、「帰る」という風船が空中へと昇っていき、そうやって宙吊りになってしまった「帰る」は手の届かないこところへ、不可能なこととなってしまいました。そして少女はこう思うようになります。

〈ここも家も寒いのには変わりないのです、あそこは屋根があるだけ。その屋根だって、大きな穴があいていて、すきま風をわらとぼろ布でふさいであるだけ。〉(『マッチ売りの少女』より)と。

 つまり帰る場所だと思っていたところも、雪の降る地べたも一緒、どちらも帰る場所でないのならば帰る場所であるのと同じこと、そのように少女は思うようになりました。こうした往きの相から還りの相への転回によってマッチ売りの少女の帰る場所づくりがはじまります。商売人からすれば気狂いじみた問題行動に映ったことでしょう。なぜなら売り物を燃やしていってしまうのですから。けれども少女からすれば帰る場所づくりです。世界を置き去りにして一本一本マッチに火をつけながら自らの内的世界の奥、帰る場所を目指して進んでいきます。その奥へと突き進む描写は宮沢賢治の短編作品『よだかの星』と重なるところがあるように思います。もちろん主題や真意はまったく異なっていることは言うまでもありません。なによりもマッチ売りの少女は無邪気にそして楽しそうに、よだかは悲壮感と罪の意識を持ちながら突き進んでいきます。

〈ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。〉(『よだかの星』より)

 〈僕はもう虫をたべないで飢えて死のう。〉という箇所はマッチ売りの少女がマッチを売ることをやめることとやわらかく重なります。そして〈山焼けの火〉から遠ざかって行きながらお日さまから星たちへ〈どうか私をあなたの所へ連れてって下さい。やけて死んでもかまいません。〉という願いをことごとく拒絶されながら冷たい方へ冷たい方へ進んでいく過程は、マッチ売りの少女のマッチの火から立ち現れる〈だるまストーブ〉〈ガチョウの丸焼き〉〈ツリーのまわりの何千本もの細長いロウソク〉といった温かいもの温かいものへと進んでいくことと反対の方向へ向かっているように思えながらも、一本一本マッチの炎が消えるとともに消えていく幻影は、よだかが拒絶されていくことと重なっているように思えるのです。

〈そのとき少女は一すじの流れ星を見つけました。すぅっと黄色い線をえがいています。「だれかが死ぬんだ……」と、少女は思いました。〉(『マッチ売りの少女』より)
〈よだかはまるで鷲が熊を襲おそうときするように、ぶるっとからだをゆすって毛をさかだてました。(改行)それからキシキシキシキシキシッと高く高く叫びました。その声はまるで鷹でした。野原や林にねむっていたほかのとりは、みんな目をさまして、ぶるぶるふるえながら、いぶかしそうにほしぞらを見あげました。〉(『よだかの星』より)

 もはや折り返すことのできない地平に辿り着き、少女は他人事のように、よだかは決意をもって帰る場所へ突き進んでいく。そして少女もよだかも口もとに笑みを浮かべ物語は閉じていきます。少女もよだかも最期には空へと帰っていく、そのような物語の結末です。けれどここで短絡的に急いで「帰りたい」は「死にたい」ということの暗喩だと言いたいわけではありません。ただし、帰る場所が安心できる場所、少女もよだかもともに笑みを浮かべることのできる温もりのある場所、そこまでは言っていいように思います。もう一つ、マッチ売りの少女やよだかが歩んだ道は産道の記憶の反復と言っていいかもしれません。そうすると帰りたいという衝動は場所そのものだけではなく、産道体験の反復をも希求している、そのように言えるような気がします。ひとっ飛びに場所へ到着するだけではダメで必ず産道体験の反復がともなっていなければならない。もちろん産道の体験は人それぞれでしょう。意識外の体験ゆえに、体がかろうじて覚えているかどうかといった程度のものですが、苦しかった者は苦しい形で、心地よかった者は心地よい形で反復していく。そうであるのならば賑やかな幻影に包まれたマッチ売りの少女は、少なくとも心地よく産道を通って産まれてきたのではなかっただろうか、そのことを救いとして貧しくみすぼらしい小さき者に伝えてあげたいと思うのです。いや、本当は小さなおばあちゃん…、小さなマッチ売りの、おばあちゃん。だれも少女の幻影を見ることができなかったわけですから、だれが本当の彼女を知ることができたでしょう。道行く人びとには微笑んで眠る顔が少女に見えただけなのですから。

 鞆さん、今回はここら辺で筆を置きます。一つだけ言い残したことがあります。なぜマッチ売りの少女の幻影に現れたのがお母さんではなくおばあちゃんだったのでしょう。おそらくその距離が、ちょうど気兼ねなく「ありがとう」と言える距離、そこはまた機会があれば酔いどれてみたいと思います。

くるんば 松村康貴

*『マッチ売りの少女』『よだかの星』ともに青空文庫より引用


『梨』
 
 梨がたべたい かあさんはいった
その日あなたは
見つけてしまったのではないか
やせた手で
瑞々しく骨の生まれた場所を
 
梨はいらない かあさんはいった
そこであなたは
殺してきたのではなかったか
たとえば私・・・
吐息にしずむ手巾のような疼きを
 
かあさん、梨をたべなよ
雨にぬれる石垣を
遠く撫でゆく掌で
あなたの瞳の皮をむくように


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