鞆隼人様へ(往復書簡5)

 宝塚にきて1年4か月、引越しと同時に犬を飼いはじめたからか月日がたつのを早く感じます。というのも犬は生後1年で人間に換算すると16歳まで成長するので、自宅作業がほとんどの僕はこの1年4か月を〈犬の時間〉、つまり16年以上を1年4か月で駆け抜けた…、とまでは言い過ぎですがとにかく早く感じたことは確かです。その犬も1歳半、幼い頃は散歩が嫌いで歩いてもらうのに苦労したものです。いまは逆にかなりの時間を費やし散歩をしたがるのでそれはそれでちょっと億劫なところもあります。犬種はビーグル、狩猟犬で鼻がめっぽう効くので気になった臭いに出合うと、「クンクン」なら可愛らしいものの人目も憚らず一心不乱に「フガフガ」いいながらどこまでもいつまでも執拗に臭いをたどっていきます。さながらその姿は水槽の砂床を這うコリドラスです。
 散歩は朝夕の2回、妻と代わる代わる連れて行きます。妻は普通の飼い主と同じく基本的には自分に合わせて散歩をさせているみたいです。僕はといえばできるだけ犬に委ねて散歩をすることにしています。在宅ワークにつきものの運動不足を少しでも解消したいという思いもありますが、どちらかというと鞆さんをはじめ介護職の方々からお年寄りの徘徊につきあう話をいろいろ聞いてきたものですから、犬につきあうぐらいできないでどうする!という変な自意識が心の片すみにあり、どうも無理矢理犬に委ねているなんておこがましい考えを自分に課しているんじゃないかと思ったりしています。
 実際のところ犬の成長はまだまだ上り坂、活力に満ちています。南極の犬ぞり隊と言ったら大袈裟ですが、委ねれば遠くへ、委ねても遠くへ、委ねるほど遠くへ、犬はどんどん〈いま、ここ〉ではないところへ行きたがります。さしずめ帰宅願望ならぬ帰宅したくない願望です。お年寄りは「帰りたい」と言って歩き続ける、犬は帰りたくないと言わんばかりに全身で手綱を引っ張る、前回お話ししたマッチ売りの少女は帰りたいはずの家を拒否しておばあさんのもとへ帰っていく…。不思議なものです。でもよくよく考えていくと、実は帰りたい、帰りたくない、ということが問題なのではなく、戻りたくない、いまここには居たくない、つまり〈いま、ここ〉は満たされた場所ではない、だからこそ〈いま、ここ〉が満たされた場所をあてどなく探し赴こうとする、そう言うことなんだろうと思うのです。
 だんだんわかってきたことですが、犬も帰りたくないわけではないのです。家は犬にとって一番落ち着く場所であり、渋々家路をたどるものの家に着けばそれはそれで満足そうな表情をします。ですがやはり帰り道、こちらが手綱を引っ張ろうものなら「梃子でもそっちには動きませんからね」と途端に石地蔵に変身します。膠着状態しては嫌々歩き、ストライキしては愚図愚図歩き、隙あらば家とは違う方向へダッシュを企てる。期待のできる野党の新人が知り合いにでもいれば、牛歩戦術ならぬ犬歩戦術をレクチャーしたいところ、どっと疲れが出る毎日です。しかしながら僕のほうに非はないのか。犬を一方的に非難しそのまま言葉をこちらの都合の良い落とし所に着地させようとするのはフェアな態度ではありません。僕の立場も明らかにすべきでしょう。
 まずは犬に委ねている、といういかにも人格者らしく見せようとするずうずうしい態度を脱ぎ捨てねばなりません。そうです。委ねていると涼しげに言いながらだいぶ計算をしていることは認めましょう。僕も散歩を終え仕事につかなければなりませんから大人の事情と言うものです。そうすると1回の散歩に割けられる時間は90分、多くて120分の間ですませたいとだいたい見積もりを立てます。もちろん仕事が立て込んでいなければ、体力づくりのためにもう少し散歩時間を許容する時もあります。
 委ねるというのはこの半分の時間と思っていただいてかまいません。90分コースで言えば45分は好きなところに行っていいよ、そんな気持ちで散歩をします。もちろん最近は犬の行動範囲も以前より広がって散歩ルートも複雑化しています。委ねながらもあそこの辻を超えたら120分コースになる、散歩時間を伸ばそうか、それともあそこの辻を左に曲がって迂回しながら帰路へ誘うか、そんなことを考えたりしています。ただやはり犬は察知します。帰路の気配を感じそこからは抵抗モードとなりマグロの一本釣りが始まります。
 けれど両者の駆け引きとはいえ、帰路の気配、家路へと意識を向ける〈私〉、それは〈私〉から生じるものであり、けっして犬の側から生じてくるものではありません。犬は受け身です。そして計算する僕を嫌がっているわけでもなさそうです。そうではなく僕の意識の中で辻を境に変わるもの、犬はその気配を良しとせず、それゆえに帰りたくないのではなく、その気配と連れ添いたくはない、それが本当のところなんだと思うのです。
 ではいったいなにが変わるのか、それは無為から無駄へ、そうした時間意識の質的変化なのではないか、そのように言ってみようと思います。そうするとまず無為とは何か、有名なところでは壮子の「胡蝶の夢」が思い当たります。引用してみましょう。

「むかし、荘周は自分が蝶になった夢を見た。楽しく飛びまわる蝶になりきって、のびのびと快適であったからであろう。自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが。ふと目がさめてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか、それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化(すなわち万物の変化)と名づけるのだ。」(『荘子 第一冊 内篇』斉物論篇十三  岩波文庫)

 ここでは無為とは何か、そのことに直接ふれているわけではありません。けれど無為の状態とはこのようなものだというところまでは表現していると思います。文を読むと羊水に包まれている胎児の世界が思い浮かびます。胎児はお母さんでもあり胎児でもある、お母さんも胎児でありお母さんでもある、けれどそれはどちらでもいいこと、どちらでも同じこと、相対的ということよりもっと解け私とあなたを分ける原初的な基点すらない、それが無為の状態、そのように僕は理解しています。もちろんここで〈時間〉はでてきません。ただこうした時間意識というのは現実的には到達することは不可能としても感覚的にあるだろうと思います。境がない状態、言い換えれば過去、現在、未来すべてに開かれているという意味ではハイデッガーの〈時熟〉を思い浮かべたりしますが、それとはだいぶ違います。〈時熟〉はもっと積極的に世界の中で人間が〈立つ〉ということに対する概念ですが、ここでの〈時間〉つまり無為の時間は世界とともにある、言うなればシンクロニシティに近いように思います。
 次に無駄についてみていきましょう。一見、無駄と無為は似ているように思いますし、日常的な会話では「無駄な日々を過ごしてきた」と「無為な日々を過ごしてきた」は、あまり区別されて使われているわけではありません。聞く方も同じニュアンスのものとしてとらえているように思います。では何が違うのかというと無駄は人間活動の合理性から外れるもの、たとえば「無駄な出費をしてしまった」「作物を作り過ぎて無駄にしてしまった」「仕事でおしゃべりし過ぎて無駄な時間を費やした」、つまり大きな意味での経済の範疇の用語であるということです。端的に言えば、経済合理性から外れた物事が無駄ということだろうと思います。そして経済合理性ですから無駄はできるだけ排除していくことを求められますし、私たちはそのように行動します。無駄は良くない、それが私たちの一般的な考え方です。僕もご多分に洩れず無駄は良くないと思う派です。けれどもそれは無駄が排除されてしまう、ということにおいて無駄を良しとしないという理解の仕方です。つまり排除されたそこへ合理性が大きな顔をして占拠しにくる、そのことにおいて無駄を良しとしたくないのです。そしてもう一歩踏み込んで言うならば合理性そのものではなく合理性に身を包んだ無駄、作為的な無駄がその場所を占拠していく、そのことに対する嫌悪感であるということです。
 ところで経済には二つの側面があります。一つは市場経済に代表される形式的な経済、そしてもう一つは人間の経済です。こうした経済の捉え方をしたのは経済人類学カール・ポランニーという人です。彼は〈社会に埋め込まれた経済〉という状態が、市場経済が花開く資本主義の誕生によって〈経済に埋め込まれた社会〉に大転換してしまったと論じた人です。少し引用してみます。

「第一の意味は形式的であり、経済化あるいは経済性というように、目的-手段関係の論理的性質から生じるものである。この意味から『経済的』ということについての希少性の定義が生まれる。第二は実体=実在的意味であって、人間は他のあらゆる生き物と同様、自分を維持する自然環境なしには瞬時たりとも存続できないという基本的事実をさし示すものである。そしてこれが『経済的』の実体=実在的定義の起源である。このふたつの意味、つまり形式的なものと実体=実在的なものとのあいだに共通する部分はまったく存在しない。」(『人間の経済』「第2章『経済的』という言葉のふたつの意味」岩波現代選書より)

つづけて、

「実体=実在的な意味は、要するに、人間が生活のために自然および彼の仲間たちに明白に依存するということに由来する。人間は、自分自身と自然環境とのあいだの制度化された相互作用のおかげで生き永らえる。この過程が経済なのである。」(同書より)

 ふつうに〈経済〉と言う時、あるいは〈拝金主義は人の道にあらず〉と嫌悪する時、思い浮かべる経済は第一の意味、形式的な経済のことを指します。けれどそれは実体から離れた表面的なもので、本来ちゃんと生活に由来した〈経済〉があり、形式的な経済のように否定されるものではなくむしろ生の営みの根としてしっかりと守っていかなければならないものであることに気づかされます。そうした側面は〈人間生活の自立と自存〉(サズシステンスあるいはヴァナキュラー)と呼ばれ、イヴァン・イリイチの『シャドウワーク』や二人の翻訳者である玉野井芳郎の〈地域主義〉にも受け継がれていきました。日本では公害や過労死など高度成長期の弊害や反省をきっかけに広まった考え方で、従来の進歩か停滞(後退)かと言ったなかなか効果を見だせない資本主義批判に対して、進歩か居住かといった新しい批判の方法論で風穴をあける試みでした。
 けれどなかなか形式的経済の牙城を崩すのは容易ではないんですね。やはり実体的な経済を取り戻そうとしても市場経済に回収されてしまう、いやその誘惑にいつの間にか乗せられてしまいます。その誘惑が〈希少性〉です。

「合理主義の経済的変種は、希少性の要素をあらゆる手段と目的の関係のなかに導入する。」(同書「第1章経済主義の誤謬」より)

 希少性をわかりやすく例えるならば、ダイヤモンドです。透明で美しく硬い鉱物ですがその価値の源泉はそこにあるのではなく、採掘されるのが稀である、または採掘量が希少であると言うところにあります。つまり希少だと思わせれば価値がつき、価値が上がり、そう思わせ続けることによって価値が安定する、そうした価値創出の法則が希少性ということです。資本主義(市場経済)によってこの影響をもっとも強く受けたのが貨幣、労働、土地(の商品化)です。ポランニーは、貨幣にも備わっている等価交換性はもともとアルカイックな社会(古代社会)においては、むしろ不平等をなくすための共産的な要素(公正価格)として慣例化されていたと述べています。もちろん紀元前から貨幣の材料に金、銀、銅などが使われていましたから貨幣に希少性はある程度備わっていたでしょう。けれども貨幣が存分に希少性を発揮するようになったのは資本主義以降、市場経済の枠組みの中で希少性がもたらす不等価交換性を貨幣に内在させ、あたかも本来的な等価交換であるかのように捻じ曲げ欺きカモフラージュしてからだろうと思います。

 さて、そろそろ犬に話を戻していかなければなりません。どうやら鞆さんと僕の散歩では僕はいつまでも帰りたがらない犬になってしまっているようです。無駄の話、無為の話はどこに行ったと思われるでしょうし、なによりも鞆さんの言葉に帰って行かなければなりません。
 先ほど僕はタイヤモンドの価値はその希少性にあると言いました。地球上で希少な鉱物である、そこに希少価値が生じると。けれどもそれは半分までは正しいですが、まだそれだけでは言い得ていないのです。つまりダイアモンドの価値は地球上で希少な鉱物であることよりも、ダイヤモンドを得るために、掘り出すことに費やされた莫大な時間、掘り出された大量の岩石や土砂、破壊された自然、生き埋めになり失われた命、どれだけ多くのものを無駄にしてきたか、が希少性を帯び価値を形成していくのです。そのことは水の商品化にも当てはまるでしょう。およそダイヤモンドと水は希少性を説明する際、対極にあるものとして語られてきました。けれども市場経済は無駄を逆手にとって利用します。水も限りある資源、無駄にしてはならないもの、富士山の貴重な地下水百%の水などなど、そのように謳って価値を形成していきました。こうした無駄の希少性化の究極は仮想通貨ではないでしょうか。もはや実体すらありません。仮想(虚構)空間でひたすら採掘(マイニング)されていくことによって価値が増殖していく、その無駄に費やされていく時間が価値を形成していく、もはや僕にはついていけない世界です。
 そこまで行かなくても無駄が価値を形成していくことは数えきれないほどあるでしょう。言うなれば現代において無駄の生産が形式的経済、つまり資本主義経済の根幹であると言って良いように思います。鞆さんの職場である介護の世界も、外側にいる僕から見ると随分その流れに晒されているなあと感じます。数十年前には必要でなかったことが今は絶対必要なもののようになってきています。押し売り業者の巧みな言葉に、なんかやっぱあったほうが安心だよねと騙されてしまう心の弱さのように、必要でないものが必要に思えてしまう、必要でないもので得をしたような気がしてくる。介護をする、その対価(等価交換性)の中でお金が回っていたものごとが、そこではないところで大きくお金が回るような仕組みにすり替わっていく…。科学的介護をはじめとする介護現場のAI化、実際本来的な介護以外の作業を任せられるということは良いことだろうと思います。でもその介護以外のところは数十年前から存在していた作業だったのだろうか、そうでないならばなぜ今、介護以外の部分が顕在化しているのか、なによりもはたして介護現場のAI化によって業務が効率化し介護職の給料は上がっていくのか、もちろん絶対的には上がっていくかもしれませんが相対的には介護施設の業績に見合った賃金上昇率とは乖離していくのではないか、つまりお金を生み出す主要な源泉が実体的な介護から外れ、AI化という形式的な経済へどんどんと移っていくのであれば、そこから生じた価値はそこへ再投入されながら増殖させていくのが常(セオリー)であり、そうしなければ生き残っていけない体質になることは資本主義の足跡を辿っていけば容易に了解できることです。大規模法人は事業所を開設しつづけなければ事業を維持していくことができない、それが形式的経済のいくすえです。今、介護業界で起こっていること、行われようとしていることは僕の目には1980年代のバブル経済と同じように映って見えます。バブル経済が土地の実体的な価値から乖離していくことによって風船のように大きく膨らみ弾けたように、介護そのものを疎かにしていく今の産業資本化する介護業界の流れは同じ轍を踏むであろうことは容易に察することができます。おそらく役人にせよ実業家にせよこの流れを牽引している人たちは、バブル経済の旨い汁にありつけた人たちか、それともバブル経済の崩壊に何も学ばなかった人たちなんだろうと邪推したくなります。
 イリイチは〈ホモ・エコノミクス〉あるいは〈ホモ・インドゥストリアリス〉的な人間観から〈ホモ・アーティフィックス〉的な人間観ということを訴え、そうした認識を持つ(ヴァナキュラーな)共同体では〈ホモ・アーティフィックス〉的な人間を「他の人に与えられるものといえば自身のモデルの魅力以外にはなにもない」(『シャドウワーク』岩波現代選書より)と語りました。一つの施設を共同体と捉えてもいいですし、一つの地域を共同体と捉えてもいいですが、およそ40年前の言葉とはいえまさに介護に相応しい言葉であり、それゆえに科学的介護というウケの良い呼称で人を欺きつつ実際は産業資本化介護という今の介護の流れに楔を打つ頼もしい言葉のように思います。
 
 さて無為から無駄へ、はじめに犬との散歩の時間意識の変化をそのように言ってみました。散歩の前半は犬に委ね、後半は帰路へ向けての犬との戦い。そしてなぜ戦いになるのかと言えば、後半の時間を僕が無駄な時間と感じている、つまり散歩の後に控えている仕事の時間が削られていくという焦りと苛立ちが生じると。そして仕事の時間が削られていくと言うことは、どんどんとその時間が希少性を帯びていくということ、この未だ到来しない未来の時間をスコップで掘ってはどんどんと散歩の後半の〈いま、ここ〉へと放り投げていく。それは経済に寄せて捉えるならば実体的な散歩から形式的な散歩ということになるでしょう。おそらく犬の拒絶はそんな飼い主の心的変化を敏感に察知し、良しとしなかったことがあるのだろうと思います。焦りと苛立ち、それは早く仕事につきたいという〈性急さ〉と結びついています。カフカは「人間の大罪は〈性急さ〉である」と言いましたが、それは焦って物事を失敗しないことへの戒めや読みを見誤らないための箴言ということよりも、〈性急さ〉によって物事が価値化されていってしまう、そのことに対する警鐘であったように思います。ここでは散歩の時間が価値化していくこと、希少価値を帯びていくこと、そのように言えるかと思います。もちろん無為は価値を拒絶するものではありません。ただし絶対化もしません。あくまで価値は価値として蝶のようにひらひらするに任せるばかりです。大事なことは、無為はひとりでは実現できないということです。世界があって私がある。蝶がいて荘周がいる。散歩する犬がいて散歩する僕がいる。およそ生じては消える無限の相対性の網の目を自由に移り変わりながら遊ぶこと、無為とはそうしたことであろうと思います。ゴミの臭い、他の犬の臭い、他の小動物の臭い、草の臭いと犬は臭いの世界を楽しんでいる。僕はそこに身を委ねつつ、道端の雑草、遠くに見える山、すれ違う人びとに視線を移しながら視覚の世界を楽しんでいる。お互い体験する世界こそ違えども同じ時間を過ごしている。それは現実世界に晒されているお母さんとお腹の中の胎児の関係に似ていると言えるでしょう。それぞれ違う世界を体験しながらも同じ時間の中で充足している。不思議なことに、そうした時間を過ごしていると作為に至ることなく委ねる立場が入れ替わる時があります。お互いがお互いの世界を楽しんでいる延長で僕の「そろそろ帰ろうか」に犬もシンクロして一緒に家路へと向かう。犬は相変わらず臭いを楽しみながら、僕も景色を楽しみながら、時々目を合わせ共有する時間を了解しあう…。もちろんそんなことは年に数回あるかないかほぼ偶然の範疇ではあるのですが。
 マッチ売りの少女の時間に寄り添う人が一人でもいれば、彼女は例えマッチが売れなくても家に帰ったかもしれません。人々は忙しなく〈性急さ〉に身をひたし、おそらくマッチ売りの少女の姿は見えているけれども見えていない、居るけれども居ない、ただ資本主義の中の死、つまり死をもって自らを商品化(視覚化)することによって、ようやく人々の目に留まることができた、もちろんボードリヤールによれば死は資本主義への最終的な抵抗手段ではありますが、その死はもっと積極的に実存的な要件を満たしていなければならず、寄る辺なき死とは異なることは言うまでもありません。そのことは母でなく祖母というマッチ売りの少女の最期の出会いに関して、もう少し深く言葉を降ろしていく時、見えてくることだろうと思います。
 少し小難しいところに立ち入ってしまいましたが、それは鞆さんとサトさんとの時間を「僕が交換可能な頼れる存在だったから」そして「サトさんにとって贈与の対象となる人、負債をどうにか返戻できそうな人なら誰でもよかった。」とおっしゃられていたことに対してなにか言えないかと思ったからでもあります。意外に思われるかもしれませんが僕は等価交換肯定派です。物々交換に始まるその交換方式はあなたと私の了解によって成立するという至ってシンプルなものです。もちろん近代以降の不等価交換によって成り立つ見かけの等価交換は良しとはしませんが。それとともに贈与ということが少し僕にはわかりにくいといいますか、正直あまり馴染めない概念でもあります。思想のことばとしていろいろ論じられてはきているのですが、あなたと私以外の別な何か、例えば神や霊といったものなどが介在してくるので少し苦手であり、人間を語る時にうまく消化しきれていないところがあります。また返礼や対抗贈与など、共同体のルールであれば我慢できそうでもあるのですが、個人間でとなるとちょっと心的負荷がきついよなあと嫌厭してしまうのです。およそ一回性とはほど遠く、ずっと付きまとうような煩わしさを感じてしまいます。
 ところで、サトさんにとって鞆さんが「交換可能な頼れる存在」であったというお話は、鞆さん側からすれば「誰でもよい存在」という少し寂しい関係のように受けとめてしまいがちですが、サトさんにとっては息苦しくないとても良いことなんだろうと思いました。交換可能であるためにはサトさんを取り巻く世界が交換に開かれていることを前提としなければなりません。まずそうした相互了解の世界を開いたのは偶然とはいえ鞆さんであり、そのことはサトさんにとって他の人を肯定していくことのできる風通しの良い窓の役割でもあります。なによりも楽しいことではないでしょうか。ある時は鞆さんがサトさんのお父さん、ある時は別な方がサトさんのお父さん、それは蝶になる夢をみる荘周の世界です。蝶が夢を見たのかはたまた荘周が夢を見たのか、お父さんは一人だけれども世界の至るところに現れては消える。そうした自由の中に「交換可能な頼れる存在」をおいてみると幸せに満ちたことなんじゃないかと思えてきたりします。そして頼れる存在ということ以上にもう少し欲張っていうと、サトさんとお父さんが共に過ごした時間の臭いに、鞆さんとサトさんの過ごす時間の臭いが似ていたのではないだろうか、そのように思えてくるのです。この1年4か月、僕が犬の散歩を通して学んだことは気が合うとは時が合う、言うなれば同じ時の臭いに包まれる、そのようなことであったと思います。
 人は最期に母を求める。このことは話しそびれてしまいましたね。最期に母を求めるのか…、正直そのことはよくわからないところです。母を思うことはあるかもしれません。いずれにせよ僕の母という経験の中で言葉をつむぐ手立てを見つけていければと思います。

くるんば 松村康貴


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