温故知新、過去と未来を忘れれば、私は磨耗しない

幸せな家庭で育ち安定志向で結婚向きだった最初の彼を捨て、10代の私は冒険と刺激を求めて海外へ飛び立った。思えばあれがターニングポイントだった。私の生き方を決定づけた。結果として、その彼はやはりもう結婚していて私はまともな大人になれずいつまでも好きなことばかりやっている。
あれ以降私が惚れる相手はいつも「私には底知れない闇を抱えている」と感じる人だ。その闇が底知れてしまうと、途端に興味を失ってしまう。彼以来ロクな男と付き合えていない原因だ。だから若くして元カノと死別して恋愛にコミットできなくなった暗い男だとかに当たる。そんな闇は抱え切れない。今まで多少陰のある男に言い寄られても、「コイツの闇は底知れていてつまらない」と断じてきた。本当に考えが予測できるから。もしくは、できるような気になってしまうから。実際それで向こうは「何でそんなに俺のことがわかるんだ」と勝手に感動している。人格分析オタクなのだから当たり前だ。自分の統計に当てはめるだけだ。だから私が感動できる要素がない。それ以上探索する意義がない。一旦はそういうことになってしまう。私は理解できないもの、より厳密には、理解できないと思わせてくれるようなストーリー性のあるもの、にこそ惹かれる。ストーリーとしては絶妙に理解できそうで、だけど想像だにしなかった角度から突然殴られる。そんな新しい価値を常に求めている。古いものより新しいものの方が好きだ。

でももう一度実家に立ち帰り、家族というものの価値に立ち帰るときなのかもしれない。刺激を求め続ければ、その行為自体は古くなるのではないか。自分のルーツに原点回帰するというまだ私の中では新しい試み。今まで捨てたくてしょうがなかった幼少の記憶や親故郷との繋がり。不思議と最近はそんな懐古から嫌気よりも安らぎをより多く抽出できるようになったのだから、少し年をとったのだろう。


あぁ、なんだかつまらないな。これすらつまらない。過去の自分はつまらないから嫌い。新しくないからつまらない。だから過去は思い出さないようにしている。それを続けてたら、過去のことがほとんど思い出せなくなった。1週間前のことも10年前の出来事も思い出せなくなった。過去に一切興味がない。みんなが「あの時、あなたこうだったよね」と思い出話をしていても覚えていないから新鮮な話に聞こえる。過去の自分を他人の口から新しく知る。それもある意味ルーツに立ち返り古きを知るということだ。自分にとっては新しい。過去を忘却したから懐古が楽しいんだろう。過去など忘却するに限る。過去のことを考える意味がない。今日一日なにをしてなにを食べるかしか考えていない。
未来のことも、普段は考えない。意味がないから。でも恋をすると、途端に未来についての思考がやってくる。向こうから勝手にやってくる。貴方のために大事なことですよという顔をして軒先にズカズカと入ってくる。未来のことを忘れることはできないから、過去と同じように未来を拒否することはできない。未来のことは無限に想像ができてしまう。現状と絡めて、こういう生活で、こういう人と一緒になって。結婚という夢遊病に脳を支配される。恋煩いがどうしてここまで人より私の生活を破壊するのかわかった。脳を支配されすぎて現在の生活に何一つリソースを割けなくなってしまうからだ。おそらく思考が増殖していく勢いが人の倍以上ある。メモリ解放をしなければ今の思考や行動がままならない。未来を消すのも、今に集中するしか手立てはない。未来なども結局は、存在しないのだ。未来というのは想像上のものでしかない、まやかしだ。まやかしについて事細かに心配することは本当に意味がない。そう考えると未来も過去とまったく変わらない。

この考えも瞑想がもたらしたものだ。自分の脳内世界をメタ的にコントロールすることでしか、私に都合の良い幸福は手に入らない。親などをみても、もともと幸福に愛される血筋ではない。おそらく、ADHDや躁鬱や夜型なのもあって、遺伝子的にいわゆる「幸せな人生」を何もしなくてもこの社会で送れる個体ではない。最低でもメタ認知に到達できないと、定量的幸福は享受できない。20代前半でまずは、そこに気づけてよかったと思う。だがこの先、幸福追求の旅はまだ長いのだろう。

あとどれくらい生きられるだろうか。
もし2年後に死ぬと言われたら、私は今日から何をするのだろう。
私はどうしてもあと2年は休みたい。そう決めたから。今まで本当に疲れたから。なぜ、こんなにも必死に生き残ったのか。幸せになりたかったからというだけである。より長く、より深く。そうでないなら、どんな手段でも使うだけ。人は本質的に自由なのだから、私はどんな手段でも使うという覚悟がある。死という事実が、その覚悟を生んでくれた。自由だけが生きる活力を生み出してくれる。本気で死のうと思ったときに、初めてそれに気付いた。社会というのは、人間の本質的な自由に気づきにくくなるようにできている。「○○してはいけない」という言葉が、人の思考を縛る。言葉は、人を洗脳する。言語とは本質的に洗脳するためだけのものだ。だから、あらゆる思考から解放されて、この物的世界を享受してみて初めて、この究極の自由を手にする。死を選ぶ直前まで、それに気づかなかった。

幸いそれなりに楽しいと思える毎日を今は過ごせている。なんだかんだで友達も多い。家族にも恵まれている。人を大切にしているし、食べ物も大切にしている。これだけで充分なのだろう。ラッキーなことに、私はサイコパスとして生まれてはこなかったからこれだけで満足できる。
だがまた近いうちに問題に直面する。未来のことなど考えたくないのに、無理矢理に押し付けられるだろう。でももう私は、社会に都合の良いように精神を磨耗させられて死んでいく人生を選択しない。私の都合の良いように社会を磨耗させてやるのだ。そう考えるだけでワクワクしてくる。幸せな気持ちになる。私の周りの世界だけがキラキラしていて、どうでも良いやつらなど勝手に磨耗していけばよいのだ。世界などそれだけのものだ。死んだら消えるのだから。私ではなく、世界が消えるのだ。

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