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#122 朝日記 「報われる辛さと報われない辛さ」「子育て論:子どもに提供できるのは何か」「職務を見すぎて、無視される機能」 (2021/07/04)

9:21起床。1:16/5:23。

2日連続で同僚たちと飲みに行った。いい時間を過ごせた。朝、コーヒー屋で2日ぶりの日記を書く。今朝は、少し散歩をし、あるお寺へお参りを行った流れでコーヒー屋に立ち寄っている。実はすごい汗ばんで、気持ち悪さの中淡々とペンを進めている。

人と会うのは楽しいし、待ち合わせをすると、そこを目指して日々頑張れる気がして、好きだ。コロナ禍の社会は、出口の見えない戦いを強いられていた感じがあり、しんどかった。もちろん、今でも、そんな国の方維新はあるだろうが、個人レベルにおいては、やはりわかりやすい出口や希望が必要だと思うし、それは自ら設定するしかない。

生き方にも同じことが言えるかもしれない。誰かの指示で動くのはラクだが、手綱を握れていないし、思うように言っていない時は支持者に文句を言うだろうし、きっと辛い。

指示がないのも辛いかもしれない。自分の行動の責任者が自分であるのは、間違った時に誰のせいにもできない。私は、自分の行動を自分で設定したい。それがたとえ辛くとも。

辛いを今という時間軸で捉えると、指示を受けるも、自分の責任で動くも同じだろうが、長い時間軸の中で捉えると、自分の人生の手綱を握れていなかった指示待ちの人生は、辛さの先に報われるかどうか怪しい。

一方、自分の責任で動いている人生は、辛さの先に報われる道しか見えない。間違ったことも、糧にできるのは自分が思ったようにやった時のはずだ。上司の指示ミスを自分の糧にできる人間はそういない。

人と会う約束をして、そこまで一旦頑張ると決め、自分の人生の手綱を握り生き続けると、振り返ったらいい人生になっている気がしている。

それこそ、5年後、10年後の自分はふわりとしか想像できないが、「人と会う約束をして、そこまで走る」という生活リズムは、5年後も10年後も続けているスタイルだろうと想像がつく。

5年後、10年後の成功者っぽい目標は実はあまりない。成功者や成功というのは、あくまでも他人からの評価でしかないので、私はわかり得ない領域で、かつそこに自惚れてはならない。

昨日、同僚というか友人と話した中で、子育て論的な話になった。ちなみに、話をした私を含め3人はまだ子どもがいない。私は子育て、こう育てたいうという想いが強過ぎても、可能性を狭めるだけかもしれないと思うということを正直な思いを伝えた。もはや、子どもにできることは、お金と安心の提供以外なくて、あとは子どもからリスペクトされる生き方を自分自身がするしかないと持論をぶつけた。

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