a story without a beginning. - 1
story: kazuo
illustration:Yuki Kurosawa
頬を撫でる空気の流れに揺り起こされるように、少女の意識は覚醒した。
全身にゆっくりと血が巡っていくのを感じながら、静かに眼を開く。
そうして彼女が始めに見たものは、暗闇だった。
黒、黒、黒…どこまでも黒く深い闇。
いくら眼を動かしてもその視界に映る物はなく、まだ自分の瞼が閉じているかのような錯覚に陥るほど。
その視覚がまったく意味を成さない空間で、少女は仰向けに身体を横たえていた。
背にした地面は堅く、身じろぎをすれば時折鈍い痛みが走る。
周囲の空気は、吹雪が吹き込んだように冷え切っていた。
上体を起こせばそこに含まれた湿気が顔に纏わりつき、立ち上がろうと両手に力を込めれば、苔むした石の感触がより明確にその存在を訴えかけてくる。
大抵の人間であれば、不安に駆られて当然とも言える状況だろう。
間違っても人が寝ているような環境ではない。明らかに異常だ、と。
心を安らげる快適さとは何もかも真逆で、ひたすら恐怖と嫌悪感を掻き立てる要素に満ちた場所。
しかし、そんな場所で目覚めたというのに、少女は怯えることも、声を上げることもしなかった。
無言で立ち上がり、膝に掛かるスカートの端を適当に手で払うと、そのまま迷うそぶりも見せずにどこかへと歩き出した。
彼女は、笑っていた。
仮に他の誰かがその場にいたとしても見えはしなかっただろうが、奥へ奥へと進むその足取りは軽く、彼女が上機嫌であることを物語っていた。
何も見えず、自分から生じる以外の音も聞こえず、何も道標となる物が無くとも構わず進んでいく。
決して歩きやすくはない石だらけの地面にさえ、つまずくことはおろか注意を向けることすらしない。
この道のことも、その先にある物も、全て解っていると言わんばかりに、ただ笑みを浮かべて歩き続けた。
やがて、どれほどの時間が過ぎただろうか。
無限に広がっているかにも思われた暗闇の中に、ぼんやりと、まばらな点のような光が浮かび上がった。
少女が足音を刻むごとに、それらは微かに揺れ動き、輪郭を変えて近づいてくる。
「ふっ…」
笑いとも呼吸ともつかない声が吐き出される。
現れた目印を真っ直ぐに捉えた瞳に光を反射させ、誘われるままに足を速める少女。そして何事も無く光源へと辿り着く。
そこにあったのは、重々しい雰囲気を放つ古びた木製の扉。所々に朽ちて隙間が空いており、隔てた向こう側から光が漏れ出している。
リング状の取っ手も少女の手にはやや大きく、装飾もほとんど施されていない分冷たい印象を与える。
少女はゆっくりとリングに両手をかけると、体重を目一杯後ろに傾けて扉を引く。
突き抜けるような振動を合図に、扉は軋みを上げながら訪問者を迎え入れた。
始めに感じたのは、仄かな温かみ。続いてやってくる、鼻をくすぐる甘い香り。身体に染み込むわずかな情報が、既に歓迎の用意が整っていたことを教えてくれる。
もっとも、それは言葉から連想されるような華やかな装いをもってのものではないのだが。
扉の重厚さに反して、中には決して造りが広くはない部屋があるだけだった。いや、粗雑とも取れる内装を考慮すれば、部屋と呼べるかどうかすら怪しい。
洞窟の一部をくり抜いただけの室内は一面岩肌がむき出しになっており、床や壁、天井の境もひどく曖昧だ。
光沢を帯びた石の刺々しさが、狭いスペースを余計窮屈に感じさせる。
その上、窮屈なスペースのほとんどを、中央に置かれたテーブルと四つの椅子が占領してしまっていた。
目覚めて此の方、お世辞にも快適とは言えない環境にばかり晒されているが、やはり少女は気分を害した様子もない。
そっと、テーブルを見やる。
卓上には注ぎ口から湯気を吐くティーポットと、椅子と同じく四つのカップ、クッキーが数枚乗せられた皿。扉を開けた瞬間の甘い香りは、紅茶とクッキーから発せられ混ざり合ったものだった。
もとが優美なものだったであろうティーセットの意匠は、煤けて所々色が剥げている。
客人を持て成すためのささやかな品々が、吊るされたランタンの灯りに照らされて影を揺らしていた。
そして、少女は部屋の全体へと視野を広げる。
四つの椅子に、四つのカップ。それがこの場に集うべき人数を示す。
既に三つのカップには紅茶が注がれ、空なのは手前の一つのみ。それに対応するように、空いている椅子も一つだけだった。
…ああ、やっぱり自分が最後だったのか、と、少女は予想していた事実を確認する。
「やぁ、お嬢さん。また来たのかい」
正面から、落ち着き払った優しげな声がした。
少女にとっては、何より聞き慣れた知友の声。
視線を上げて言葉の主をしっかりと捉えると、相手もまた穏やかな笑みを返してきた。
声をかけてきたのは、紳士然とした老齢の男性だった。
浮かべた笑みはそのままに、男性はゆっくり落ち着いた所作で紅茶を口に含む。
「ヨォヨォ、やっと来たか!待ちくたびれたぜ嬢ちゃん!」
続いて、隣から新たな声が少女を呼ぶ。こちらは若い男性のもので、老紳士とは対照的にどこか軽薄そうな雰囲気を感じさせる。
「まったく!貴方はまたそうやって、お客様にちゃんとご挨拶もしないで!…いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました」
更にその隣からは、甲高い女性の声が上がる。若い男性を咎めつつ、彼らの代表をするように少女へ歓迎の意を伝えた。
実に個性に富んだ先客達が、思い思いの表情で少女を見つめていた。
それは、幾度となく繰り返された光景。
いつも紅茶と茶菓子を囲んで少女を出迎える彼らこそ、この無骨な部屋の住民にして、奇妙で愉快な少女の仲間達である。
彼らを含め、今目の前にある事象の全ては、既に何度も味わってきた少女の日常と化している。
そして今回も、彼女の来訪をもって集うべき面子が揃った。
つまりそれは、何度目かも知れない“お茶会”の開催を意味していた。
少女は口角を上げて悪戯っぽい笑顔を作ると、朗らかに開会を宣言する。
「こんにちは、みんな。さぁ、今日も楽しいパーティーを始めましょうか」
彼女のその言葉に、三人の…
…いや、三匹の参加者達は、やはり思い思いの反応で肯定を示すのだった。
少女に名前は無い。
家も無く、家族も無い。
人が当たり前に持っているべきものの多くが、彼女からは欠けていた。
あるのはその身体と、身に付けていた一着のエプロンドレス。そしてあの部屋で待つ仲間と過ごす時間だけ。
この閉ざされた空間内で観測されるものだけが、彼女の持ちうる全てである。
少女にとっての最も古い記憶は、先程と同じ暗闇の中での目覚めだった。
望んで踏み込んだわけではない。
迷い込んだわけでも、誰かに連れてこられたわけでもない。
気付けば、そこに存在していた。
ここは何処か。一体いつからこうしていたのか。何故自分はこんなところに居るのか。脳裏に浮かんだのは、そんな至極当然な疑問。
少女は覚醒直後でまだうまく働かない頭を使い、現状に繋がる経緯をなんとか思い出そうとした。
そしてすぐに、自分に思い出す記憶が無いことに気付いたのだ。
何も浮かんではこなかった。手掛かりになるものはおろか、それ以前の日常も。
自分が誰なのかさえも。
訳が分からなかった。
必要なもの、あるべきものを持たず、何かに見捨てられるようにこの場所へと放り込まれた。
そんな状態の、しかもたった一人の子どもに、冷静になれというのも酷な話だ。
洞窟の暗さも冷気も、人を怯えさせるには十分な要因となりうるだろう。だが、それらはあくまで要素の一つでしかない。
人間に何より恐怖を与えるものは、『理解できない』ことだ。
周囲の過酷な状況が理解できない。その中に自分が巻き込まれる理由が理解できない。自分の存在が、理解できない。
情報の不足はより大きな混乱を招き、拠り所の無い感情が焦燥を生む。
つまりは、少女も始めは確かに混乱していたし、恐怖を抱いていたのだ。
叫び声を上げそうになる衝動を必死に抑えれば、代わりに両足が勝手に動き出していた。
一体どれほど彷徨っていたのか。実際は大した時間ではなかったかもしれない。しかし少女には、片足を踏み出す一瞬さえもどかしく感じられた。
何を目指しているかも分からず、それでも立ち止まってはいられなかった。
地面の石に何度もつまずき、鋭く尖った岩で時折肌を傷つけながらも、歩いて歩いて…
そして辿り着いたのが、この部屋だった。
隙間から見える光と扉越しに聞こえてくる話し声から、そこに誰かが居ることはすぐにわかった。
しかし、意を決して開け放った扉の先には、思いも寄らない不可思議な存在との邂逅が少女を待ち構えていたのだ。
目に入った三つの人影に安堵したのも束の間、改めて視認した先客達の姿は常識という範囲からは完全に埒外のものだった。
扉の正面に座る老紳士は、手にしたパイプでゆったりと煙草をくゆらせていた。
優雅な所作に反して服装は継ぎ接ぎのコートと帽子に丸眼鏡という粗雑なものだったが、身なりなどよりも少女の目を引いたのが彼の顔立ちである。
顔を覆っているのは人肌ではなく淡い栗色の毛。笑みをたたえる口は頬まで広がり、長いヒゲは真横に針金のように伸びている。
同じく毛に覆われた指には鋭い爪が生え、自分を傷つけないための器用な指使いでヒゲを弄ぶ。
座っていたのは、人間程の巨体を持った一匹の猫だった。
猫そのものといえる顔でありながら、人の言葉を話し、手を使って紅茶まで飲む。全てをさも当たり前のように平然とこなす彼の態度が、余計に異様さを際立たせる。
その隣では、これまたヒゲを生やした蛙が用意されていたお菓子を口一杯に頬張っていた。
両生類特有の飛び出した眼を満足げに歪ませ、口の周りに付いた食べかすを長い舌で舐め取る。
更にその隣に居たのはぬいぐるみを思わせる小柄な体躯の白兎。
小さく細い腕全体を上手に使い、自分の顔ほどもあるカップで紅茶を飲んでいた。
少女が出会ったのは、人間の服を着た二足歩行の動物達。彼らはやがて少女の存在に気が付くと、まるで人間のような目で、彼女を見た。
…とうとう狂ってしまったか。事ここに至って、少女はついに自らの正気をも疑うことになった。
動物が人のように立って喋るなど、何の冗談だ。
ありえないと心が訴えかけていた。異常だと本能が囁いていた。
平静からはほど遠い精神状態で出会った幻覚じみた存在は、まさしくとどめともいうべき衝撃を与える。
無理だ。これ以上は耐えられない。
彼らが何者かなど考える余裕も無い。もう何もかもが恐ろしい。
心臓が、限界が近いと警鐘を鳴らす。事実、この時の彼女は極度のストレスで失神してもおかしくはなかった。
逃げ出したくても四肢に力は残っておらず、ギリギリで意識を保ちながら震えることしかできなかった。
そんな突然の来訪者を、奇妙な先客達は暫し驚いたように眺め…
――――やがて、柔らかな笑みと言動をもって歓迎の意を示したのだった。
うずくまり怯える身体をいたわりながら椅子に座らせ、淹れたての紅茶と甘い茶菓子を振る舞った。
それでもなお表情を強張らせる彼女を安心させようと、三匹で代わる代わる声を掛け続けた。
人間の枠から完全に逸脱した姿をしているのに、与えてくる温もりは何より人間らしいもので。
その熱は、暗い感情で凍りついた心を溶かすには充分過ぎるほどだった。
文字通り心無いものに冷たく傷付けられた少女は、ようやく誰かの優しさに触れたのだ。
この思いがけない友好的な待遇により、少しずつ落ち着きを取り戻していった彼女。
同時に、これが夢や幻覚などではないことを理解した。
この場所も彼らもその中に立つ自分も、疑いようのない現実で、自分もまたこの場所に属するべき住人だったのだ、と。
一度理解してしまえば、それだけで身体を縛っていた苦しさが嘘のように消えていくのが感じられて。
気付けば、恐怖に駆られてやって来たことなどすっかり忘れて、少女は彼らと過ごす賑やかな時間に夢中になっていた。
兎が話題を持ち出せば、蛙がジョークで盛り上げ、猫は時折話に混ざりつつ年長者らしく見守る。彼らの個性もまた、場を彩る華となって少女を喜ばせた。
他愛なくも明るい会話を重ねた後は、猫が懐から取り出したトランプを使ってのゲーム。記憶を持たないが故の新鮮さも手伝い、それこそ永遠に遊んでいられそうにも思えた。
形の無い何かが虚ろだった自分を満たしていく感覚を、少女は与えられるまま享受していた。
岩の部屋で繰り広げられる宴の中で大いに笑い、楽しみ、幸福を味わった彼女は、遂には疲労から強烈な睡魔に襲われ眠りに落ちた。意識が途切れる瞬間、心の片隅で「この時間がずっと続けばいい」と、密かに願いながら。
それが、少女にとっての最古の記憶。そして、何十何百と同じ体験をなぞることになる『日常』の始まりでもあった。
次に目覚めた時、少女は再び暗い洞窟の地面に横たわっていた。
まだ僅かに残っていた、楽しかったお茶会の余韻を頼りに、すぐさま起き上がると今度はしっかりとした足取りで奥へと歩き出す。
混乱していた前回と違い、そういうものと解ってしまえば洞窟を進む体感時間も驚くほど短く感じられた。
つまずきも傷を負いもせず、何も起きないまま再び眼前に現れた、あの扉。
中を覗けば、果たして彼らはテーブルを囲んで彼女を待っていた。
そこから先は、眠りに就く前に願った通りだった。
彼らと紅茶を飲みながらのんびり雑談を交わし、トランプで遊び、やがてやって来る睡魔に任せて意識を手放し、また暗闇で目覚めては部屋へと赴く。その繰り返し。
少女は便宜上、目覚めてからまた眠るまでの時間を一日として、以来決まったサイクルの上での生活を重ね続けてきた。
人間の慣れとは恐ろしいもので、あれほど心が波立って仕方がなかった洞窟の暗さと冷たさにも、三度目の起床を迎える頃には何の感情も抱かなくなっていた。
そうして日常を繰り返す中で、気付いたことが一つ。
どうやらこの空間は『一切の変化が起きない』場所であるらしい。
より厳密には、『あらゆる変化が定着しない』場所と言える。
例えば、いつも部屋に用意されている紅茶とお菓子。常に出来立ての品質を保つこれらの品々は、全員でその全てを飲み切り、食べ切ったとしても、しばらく目を離している間にどこからともなく補充されている。
動物達の誰かがこっそり作っているのかとも考えたが、お茶会の最中には誰一人席を立つことはなく、また調理場も材料もいくら探しても見つからなかったためにすぐに間違いであると分かった。
他にも、自身の不注意で着ていたエプロンドレスを汚してしまった際、洗う方法も無いため止むを得ずそのままにしていると次に目覚めた時には綺麗に元通りになっていた。
一体なぜこんなことが起こるのか。動物達に尋ねてみても返ってきたのは「ここはそういう場所なのだ」という曖昧な答え。
自身が眠っている間のことはどうやっても窺い知ることができない少女は、それ以上追求せず素直に受け入れることにした。
探ることを諦め、疑うことを諦めて、少しずつ身も心も適応していった。
そしてまた、少女は目を覚まし、幾度目とも知れないお茶会の幕が上がる。
回数など、二桁を超えた時点で早々に数えることを止めた。
今となっては、自分が何者であるかという答えを探すことでさえ、少女にとって些末な事柄になってしまっていた。
いや、そもそも自分に無くしてしまった過去など本当にあったのだろうか?
自分は今の、一見すれば退屈にも思える生活に満足している。この場所以外で過ごした記憶も結局は思い出せないままだし、興味も失せた。
だったらもうそれでいい。ここにある以上の物は必要ない。今更与えられても持て余すだけだ。
この場所こそが自分の住処。
彼らこそが自分の友であり、家族。
きっと自分には過去など無く、あの日、最初に目を覚ましたあの瞬間、自分は存在するべきこの空間に生まれたのだ。
ならばこれからも、自分はこの空間で変わらず生きていくべきなのだ、と。
それが少女の見出した答えだった。
「…さん。お嬢さん」
「!」
猫の呼び声で、意識が引き戻される。
眼は急激にリスタートを掛けられたことで焦点の置き場が分からなくなり、強引に合わせるようにテーブルへと視線を固定すれば、配られたまま放置されていたトランプの山があった。
いつものようにおしゃべりが一段落し、猫がトランプを切り出した頃。
どうやらその辺りから、随分と深く物思いに耽ってしまっていたらしい。
「どうかしたのかね?いくら呼んでも返事をしないものだから心配した」
顔の上下が逆さになりそうなほど首をかしげて、猫が屈んだ姿勢から気遣わしげな表情を向けてくる。
丸眼鏡越しに覗く細い瞳孔が横に開き、見つめる少女の虚像を飲み込むように収めた。
「平気よ。ちょっと考え事をしてただけ」
笑顔を作りつつ短く答える。
自分が正常だと伝えたい気持ちからか早口になり、結果どこか素っ気ない響きになってしまったと直後に後悔する。
猫の反応が気になったが、取り敢えずは納得してくれたようで姿勢を戻したことに安堵した。
「おいおい嬢ちゃん。せっかく勝負するんだから集中してくれねぇと困るぜ。それに、あんまり待たされると肌が乾いちまうよ」
蛙は茶化すように言うと、こちらの反応も見ずに両頬を目一杯膨らませてゲッゲッと笑い出した。
ちなみに今のは彼が三日の内に一度は必ず口にする定番のジョークである。
「何だかお顔の色が優れないようです。本当に大丈夫ですか?」
右隣の席から乗り出してくる兎には、「ええ」と一言だけ返しておく。
これ以上は下手に説明するより平常通りに振る舞って見せた方が理解してもらえると思ったのだ。
が、なおも迫ってくるつぶらな眼を見るにまた上手くはいかなかったようだ。
顔色が悪いと言われても、本当にただ思考に没入していただけで、特段不調などは抱えていない。
それとも自分が解らないだけで、端から見れば今の自分の状態はそんなにひどいのだろうか。
疑問は抱いても、かといってそれ以上言うことも無く、少しばかり気まずい雰囲気を勝手に感じてしまう少女。
そんな彼女の硬直を、蛙が打ち破った。
「ま、何も無いってんならそれでいいだろ。いい加減さっさと始めようぜ」
自分の手札を4本の指で引っ掴む蛙に、すぐさま兎の非難が飛ぶ。
「ちょっと!貴方はどうしてそう思いやりというものが無いのかしら!少しはネコさんを見習ったらどうなの!」
口調が険を帯びていても、蛙に詰め寄る兎はその外見ゆえにどうしても愛らしい。
「本人が大丈夫って言ってんのをしつこく聞く方がどうかと思うぜ?まったくウサギってのは無駄に口うるさくていけねぇや」
「そういうことじゃないでしょう!最低限の礼儀というものがあると言ってるのよ!」
まったく応えた様子が無い蛙の小馬鹿にしたような態度に兎が食って掛かる。主張は正しいのかもしれないが、自身も熱が入りすぎて結局肝心の少女を置いてけぼりにしてしまっている。
一方がのらりくらりと煽り、一方がみるみるヒートアップしていく二匹の言い争い。
それはもう、目が回りそうな光景だった。
「…なんだか悪いことをしてしまったかしら」
「なに、気にすることはないさ。その二人が騒々しいのはいつものことだろう?」
若干申し訳なさそうに呟く少女。対して、フォローする猫は完全に呆れている。
猫の言うことも事実その通りなので、少女もやがて頷くと静観に徹し始めた。
関わりを持ってすぐに解ったことだが、どうもこの二匹は根本的な部分で反りが合わないらしく、こうした些細な食い違いからの口喧嘩がしょっちゅう巻き起こる。
大抵は放置しておけば自然と収まるのだが、なにしろ狭い部屋に常に両者が揃っているためにとにかく頻度が高い。
おまけに言い争っている間はどちらも周囲の声が耳に入らなくなるため、毎度蚊帳の外に追いやられる少女達にできることといえば、こうして苦笑交じりに見守るぐらいなのだ。
「しばらく放っておくしかなさそうね。先に私達だけで始めちゃいましょうか」
数分待っても収束の気配が無いと悟った少女は、先程の蛙と同じように自分のカードを手で引き寄せた。
結果的にではあるが、蛙のおかげで先程までの気まずさが和らぎ気が楽になった。
彼自身にそんなつもりは全くないとしても、その無神経さに助けられた形になる。
どうせ口にしても聞こえはしないだろうと、少女は心で礼を述べておいた。
「そうだな。おい、お前さん達。こっちはもう始めているから、気が済んだら戻ってきなさい」
案の定、猫がそう声を掛けたことにも、二匹は気づいていないようだった。
「さてと。それじゃまずは私がお相手しよう。と、そうだ、その前に…すまないが、一服しても構わないかね?」
そう言って懐から取り出したのは、あの日見たものと同じ、愛用のパイプ。
「ええ、平気よ。気にしない」
少女の許可を得て、猫は慣れた手つきでマッチを擦り火を点ける。強い香りを持つ刻み煙草の煙が部屋に充満する。
優雅に紫煙をくゆらせる紳士の姿は、煙草のことなどまともに知らない少女の眼にも、とても絵になるものに映った。
「いつも思うのだけど、私に聞かなくても煙草くらい好きに吸えばいいのに」
「これは喫煙者として最低限のルールというものだよ。たとえ親しい者の前であっても同じことさ」
「もう何度も見てるんだから今更文句を付けたりしないのに。ネコさんってほんとに変なところで律儀なのね」
咥えた口一杯に煙を吸い込み、肺まで行き届いた香りを味わうと、鼻から一息。
ひとしきり循環させたところで、ようやく彼もトランプを手に取った。
その様子を、少女は後攻となった自分がカードを出す瞬間まで、じっと見つめていた。
「…」
もう一度だけ、彼女は思考を巡らせる。
この場所での生活に不満は無い。
それ以外のものにも興味は無い。
ただ一つ、気にかかることはある。
それは部屋を訪れる時、最初に自分を見る老紳士が必ず口にする、ある言葉。
『また来たのかい』
たったそれだけの言葉に、どこか自分を咎めるような響きを少女は感じていたのだ。
「…ふふっ…」
だがそれも、きっと気にしたところで詮の無いことだ。
今度は意識を埋没させず、目下の目的であるゲームへと向き直る。
考えるのはとにかく後にしよう。
だって今がこんなにも楽しいのだから。
次回に続きます。
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