見出し画像

手の写真(掌篇小説)

 大学構内のカフェテラス(無人販売)で、デジタル一眼レフカメラのディスプレイを確認していると、その人が私の横に立った。
 そして「私の手の写真を撮ってくれない?」と言った。私はいささか困惑した。面識のない人に、いきなりそんなふうに要求されたら誰でも不審感をおぼえるに違いない。
 その人物は――守基(まもき)さんという他学科の同級生であるのをあとで人づてに知った。たしかに目の前に差し出された彼女の手は綺麗だった。すっと伸びやかで間接に節くれ立ったところがなく、爪が細長くてつやつやとしていた。ほくろがひとつも見あたらず、どこか人工物のような嘘くささがあった。一瞬それを自慢したいのかもしれないとも考えたが、しかしわざわざ知らない人にそんなふうにするだろうか。
「人は撮らないことにしていますので」と私はすぐに断った。不快そうに言ったかもしれない。
「どうして」と彼女は尋ねた。
「人にカメラを向けるのは怖いし、許可を取らないで撮影してトラブルになるのも面倒ですから」と私は答えた。
「私はお願いしているのだから、許可に関しては大丈夫」
「でも、人を撮るのは嫌なんです」
「さっき怖いと言ってたけれど、私も怖い?」
「違うんです。単純に人にカメラを向けるのはなんだか嫌なんです」
「そう……。じゃあ人ではないことにしましょう。手の形をした木とか石とかが私の手首の先についているというので構わないの。そうであれば問題ないと思うんだけど」
 私はこの人はずいぶん奇妙な理屈を押し通す人だと思った。彼女の手にも手を撮影することにもまったく興味はなかったが、自分の手を木や石であっても構わないなどというセリフには引っかかるところ――はっきりとしないが、魅力めいた雰囲気かもしくは違和感のようなものおぼえた。そしてもう少しやりとりをしてみてもいいかもしれないと考えた。
「どうして私に声をかけたんですか?」と私は言った。
「一眼レフを持っていて目についたから。あとは変な感じがしなかったから」と彼女は言った。
「大きなカメラを持っている人って、普通の人よりだいたい変な感じがするんじゃないですか?」
「そうかな。持ちものや趣味的なことなんかに対するものではなくて、嫌らしい感じはしなかったという意味でというか」
「自分が嫌らしい感じがするかどうかなんて、あまり考えたことはなかったです」
「そう?重要だと思うけれど。だって木や石を撮ってもらうとしたって、私の本体の部分はこうしてあなたと面と向かってしゃべっていて、生身の人間なのだから」
 私は一般的な人に対する生身の人間の印象と、彼女に対するその同じ言葉の印象がかなり違っているように感じた。それは単純に美しいものとそうでないものの違いだろうと思った。
「私があなたの手を撮影したとして、それをどうするんですか?」
「どうもしないの。ただ撮るだけ。それはあなたのカメラに残るでしょう」
「プリントして欲しいわけではないんですか?」と私は困惑して言った。
「部屋に飾るなら自分の手の形の木や石よりも、ブレッソンとかキャパとか誰か有名人のモノクロームの写真がいいかもしれない。カラーなら巨大な花なんかでもいいかな」
「私もあなたの手の写真があっても困りますけど」とあえて少し嫌な顔をしてみせた。
 そして彼女は少し間(ま)を置いてから、突然、「隕石にしましょう」と言った。「石や木の写真は、上手く撮れていなかったら削除してしまうかもしれない。でも隕石の写真なら、少しくらいアングルが悪かったりピントがずれていたりしても、あなたは消さずにとっておくでしょう」
 彼女は右の手首をくるっと半回転して手のひらと甲の上下を入れ替える仕草をした。それから手のひらを上にしてグーパーを三度繰り返した。
 大学は山の斜面に建てられていて、カフェテラスはそれぞれの講義棟へ続く階段をのぼったわきにあった。仕切りの少ない大きな窓のむこうには授業へ向かう人も下校する人もいた。バッグなどのほかにレジ袋をさげている人もいた。エアコンの室外機のそばにいるみたいな空気が対流し、時間がけだるく感じられた。
 私は撮影の準備をはじめた。一眼レフの電源を入れ、操作ダイヤルが絞り優先の設定になっているのをたしかめた。
「どうします。手のひらを太陽にみたいに空に透かして撮りますか?それとも普通にテーブルの上で撮りますか?」
 彼女は手のひらを伏せてテーブルの上に準備をした。
 私は立ち上がり身を乗り出してカメラを構えた。ファインダーを使わずディスプレイを覗き、左手でズームを調整してブレないように気をつけながら同じアングルで三枚シャッターを切った。
 自分でざっと確認してからすぐに今とったばかりの写真を彼女に見せた。
「うん、よく撮れている」
 私はこの月並みなセリフをこの人らしくないと感じた。私がシャッターボタンを押した瞬間にかかっていた魔法が解けたのだと思った。
 そして彼女は「どうもありがとう」と言い、道を尋ねた人が目的を遂げて踵を返すように私のもとを去っていった。
 私は再度、カメラに収めた隕石を確認した。どう見ても人間の手にしか見えない隕石を――。

 あれから何度かキャンパス内で彼女を見たが、話しかけられることはなかったし、私から話しかけることもしなかった。しばらくして、彼女が大学を辞め南アメリカのどこかの国(スペイン語圏らしい)に留学したことを知った。

<了>

昨日、漫画も更新しました。
こちらもよろしくお願いします。


書籍代にします。