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文字の涙(掌篇小説)

 あなたの目から数珠繋ぎの文字が流れる。あなたは目をしばたかせ、涙だと言った。しかしそれは勘違いらしく、右の涙腺から溢れているのはどうやら湿った文字のようだった。見慣れた平仮名や片仮名や漢字やアルファベットではなくて、見たこともない不思議な文字だった。
 あなたはそれをつまんでするすると引き寄せる。すると途切れることなく一本の縄状の文字の集まりが現れた。
 あなたはラプンツェルみたいだと言い、私にはその例えがよくわからなかった。
 時計の針は7時10分を指していて、あなたは仕事を休むと言った。私はそれがいいと言った。私はあなたのことが気がかりだったけれど、会社へ行かなければならなかった。デスクライトのデザインの納品があり、取引先の人と会う約束をしていた。
 私は通勤電車のつり革につかまり、あなたのことを考えた。あの文字はあなたの思考や記憶なのだろうか、身体の片々なのだろうか。
 朝のデスクワークをしながらも、文字はあなたの大切なものであるという疑念を払えなかった。とても恐ろしい事態が起こっているような気がした。
 予定通りの時間に来客があった。デスクライトの図面を渡しモックアップを見せて、細かいチェックをした。その間も私の気はそぞろだった。先方も様子がおかしいと感じたらしく、体調がすぐれないのですかと心配された。
 寄り道をせず帰宅すると、あなたはいなかった。
 テーブルの上に付箋があり、「ホテルに泊まります」とだけ書かれていた。すぐに電話をしたが、あなたは出てはくれなかった。
 私は途方に暮れた。
 そして別離を予感した。しかしこんな別れかたは、過去の経験にも見たり読んだりしてきた物語にもなかったと思った。
 翌日、私も仕事を休んだ。何も手につかず、椅子に座りじっとしていた。目の前の携帯端末だけが気になった。あなたは今どうしているのだろう。どうして連絡をくれないのだろう。
 14時03分、あなたからメッセージが届いた。私は無性に怖くなり、一瞬だけ読むのを躊躇した。
 画面にはホテルと部屋番号だけが書かれていた。あまりに素っ気ない内容に、私は苛立ちと焦燥を覚えた。
 私はすぐにタクシーを手配した。
 ホテルに到着し足早にエレベーターに乗り10階のその部屋へ向かった。そして息もつかず二度ノックした。返事はなかった。
 ドアノブに手をかけると、予想外に扉が開いた。たぶんオートロックで鍵がかからないよう、細工がしてあったのかもしれない。
 部屋に、あなたはいなかった。
 ベッドと机と一人掛けのソファとテーブルが目に入った。テーブルの上にはメモとスマートフォンが置かれていた。
 メモには「動画を見てください」と書かれていた。また短い言葉が私を不安にさせた。
 端末はベッドのほうを向いており、録画中になっていた。
 私はそれを止めて、始めから再生した。
 ベッドの上に座っているあなたが映る。右目からはあの文字が流れている。あなたは両手で文字の縄をたぐっている。昨日の朝と同じように、次から次へと数珠繋ぎの文字が排出される。
 私は、ふと部屋を見回した。
 人の気配はない。ふたたび映像を見る。
 すると変化に気づいた。あなたという人間が薄くなっている。わずかに身体が透き通っているように感じる。半信半疑だったが、あなたはたしかに透明になりつつある。身体が軽くなったのか、座っている布団の沈みかたが不自然なようにも見える。
 なおもあなたは文字の縄を引き続ける。
 私は動画を見入っていた。ただ見入るしかなかった。
 10分くらい経過した頃、あなたの身体は宙に浮く。そして身につけていたものも一緒にふわっと消滅する。

<了>

書籍代にします。