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ファンタシースターオンラインの生みの親、中裕司さんの抱いた光が通じなかった現代の深遠なる闇は深い

# 一体、急にどうしましたか?

ファンタシースターオンライン(PSO)の根幹を担ったこだわり屋さんのゲームクリエイターである中裕司(なか ゆうじ)氏が、国内最大手であるゲームパブリッシャー、スクウェア・エニックスと裁判を起こしていたことを中裕司氏本人がTwitterで明かしておった。

https://twitter.com/nakayuji/status/1519648947932860416

詳しいことは当該のツイートを読んでもらえればよいが、PSOに出会う前にファイナルファンタジーとドラゴンクエストとSaGaと聖剣伝説とワンダープロジェクトJと熱血大陸バーニングヒーローズと天地創造とクロノトリガーと半熟英雄とバハムートラグーンとライブアライブとスーパーマリオRPGとトレジャー・コンフリクスとそして外しちゃいけないルドラの秘宝で育ってきた筆者は中裕司氏の「スクエニはゲームとゲームファンを大切にしてない」という主張に二つ返事である。天野喜孝さんが描くFFが好きだったから35周年のTシャツは買ったけど、なんというか、もう、「ゲームって何が大切なんだろうね?」という本質から遠ざかって「ゲームの形をした何か」を作るだけになってしまったスクエニに関してはもう熱が冷めてしまって、語るほどのことすらないのだ。(ピンとこない方々には「ハリウッドは偉大で退屈である」という言葉だけ残しておこう)

とはいえ、Twitterは広いようで狭いコミュニティを形成する疑似世界だ。いいねやRTによって自身のタイムラインやサジェストが汚染されてしまう仕様や、「ゲームに没頭して時間を忘れるほど楽しんでいる生粋のファンはわざわざTwitterを開いて開発者本人を訪ねたりなんかしねぇ」という当たり前で不都合な真実により、言論の自由を謳いつつも、情報自体は批判的な主張を行って人民を扇動したい思想家の思惑や、疑わしきは罰せよを地で行くキャンセルカルチャーの方向へ傾きやすい。

小難しいことを言ったが、要はみんなの心に残るゲームを数多く生み出し世の中を席巻した中裕司氏ですら世の中の風当たりはきつい。だから堂々とここに養護の記事を書いておく。なぜならば中裕司氏はファンタシースターというひとつのありふれたファンタジーRPGのIPを、世界で通用するオンラインゲームとして昇華させた日本のゲーム業界における偉大なゲームクリエイターの一人であり、和製スターウォーズとも言えるごちゃまぜSF文化の素晴らしい世界観で構築されたファンタシースターに私が触れるきっかけを作ってくれた人であり、私の人生観を変えた心の師匠のうちの一人だからだ。

念のため断っておくが、この記事を読んだから中裕司氏が嫌いになった、好きになった、スクエニを擁護したくなった、といった感情が巻き起こったとしても当事者にはその旨を伝えてくれるな。我々は筆者も読者も含めてどこまでいっても赤の他人の外野だ。個人の感想でとどめておけ。私は単に彼の作品やそのメッセージ性について語りたくて語っているコラムニスト気取りのゲームオタクなだけであり、ご本人に迷惑をかけるつもりは毛頭ない。
ここはゲームを作りたい人がPSOを通じて自習するための記事だ。もし誰かを攻撃する目的で今これを読んでいるならば、今すぐ踵を返してお前の巣に戻れ。

# この記事は何を語ろうとしているか

何も「中裕司は素晴らしい人でスクエニは悪で~」のようなプロパガンダを広めるつもりはない。ただ筆者は社会的に行き詰って人生の先が見えなくなっていたころ、PSOを通して心が救われた。提供される世界観に沿ったルールと姿で、新しい生き方を体験し、関わってくれる人々や遠間から見える人々の悲喜こもごもを通して、新しい社会の作り方を知った。PSOは自分のためではないルールが敷かれた狭いムラ社会で窮屈にえずきながら息だけをしていた私に「もうそこに留まらなくていいんだよ」と優しく促してくれた。

私はそのゲームが与えてくれた心の栄養を、人としての成長を促し経験と教養を高めてくれたその恩を、一生かけて返すことを心に決めている。ここで語ろうとしていることは「作りこまないといけないゲームとは何なのか、中さんは何を作りこもうとしていたのか」である。特に強く彼のメッセージ性を感じたのは、ツイートのスレッド内に繰り返し主張されている「ギリギリまでゲームを作りこむのがゲームクリエイターの仕事」という彼のポリシーについてだ。

ゲームは最後までいかに良いゲームにするかを努力して、ゲームファンの方々に買って頂いた時に楽しんでもらいたいと思って作る物だと思います。コメントしてくるディレクターを時間が足りないので、相談もなしに外して一切関わらせないと言うのはおかしいと思います

https://twitter.com/nakayuji/status/1519648958196305920
中裕司氏のツイッターより

# 納期ギリギリまで作りこむのは開発チームにとって悪なのか。そんなわけないじゃない。悪だと思う人は作り方を間違ってるよ

昨今、納期ギリギリまで無骨に手探りで仕事を続けることは「働きすぎ」であったり「非効率だ」であったり「ブラックだ」であったり、悪いことであるかのようにられることが多い。しかしこれはあくまで仕事を”受け取る”側の主張であり、仕事を”渡す”側の主張については省かれている。

仕事を受け取る側はひとこと「きつい」「できない」と言えばよい。仕事を渡す側は「どうしたらできる?」「どこまでならやれる?」と尋ねればよい。その姿勢を中裕司氏はツイート内で示していて、これはエンターテイメントを作る開発現場における真理だ。日本が誇るエンターテイメントであるゲーム、アニメ、マンガは人の心を原動力として作られるものであって、金や納期の都合、ましてや世間体の為などではできていない。共通の目的、目標を掲げたとして、協力し合えない連中(=敵と言ってもいい)とは絶対良いものは作れない。

ゲームを作っているのですから良いものを作る為の修正要望を出すのは当然の事だと思いますし、もしそれが出来ないのであれば話し合いをすれば良いだけだと思いますが、それが出来ないようです。ゲームを大事に出来ていないと思います。

ギリギリまでゲームをよくするのがゲームクリエイターですしそれが出来ないようにすると言うのはやはりおかしいと思います。弁護士先生にお願いして、なんとか最後まで開発のコメントを出すだけでもと交渉しましたが、全く聞き入れなかったので裁判所で訴訟を提起しました。

https://twitter.com/nakayuji/status/1519648958196305920
中裕司氏のツイッターより

なお、マンガに関しては「ジョジョの奇妙な冒険」に登場する岸部露伴が「金やチヤホヤされるためにマンガを描いているわけではない」と激昂する場面が有名で、アニメに関しては「エヴァンゲリオン」で有名な庵野秀明監督がただただ自分の好きなものを作っている、作らせてもらっているというスタンスが広く受け入れられているのを思い浮かべてもらえればよい。彼らは「やりたいからやらせてくれ」の典型だ。

今回の件については私は部外者であるため、多くの野次馬が望む事実関係を明らかにすることはできない。だが、実は話の真偽などどうでもよい。中裕司氏が現場でどのように立ち振る舞っていたかにしろ、バランワンダーワールドをスクエニの都合で出したとして、残念ながら結果はご覧の通りだ。仮に中裕司氏が開発チームから嫌われていたとして、その開発チームが作ったものは、全世界から嫌われている。場合によっては、氏の作品であると知らないままに。それが事実だ。

中裕司氏は「作りたいものを途中で取り上げられた」という気の毒な体験をした。スクウェア・エニックスが「これでいい」と判断して作り上げたものは売れなかった。誰も幸せにできないサーカスがそこに1つ生まれてしまったという、ゲーム業界の歴史におけるただひと欠片の悲劇にすぎない。しかしそれは、今後のゲーム業界において、アニメ・ゲーム産業を誇ってきた日本において、繰り返してはならないひどく悲しい出来事だ。この件については、ゲーム業界をずっと「どうにかならないか」と案じる身として大いに語らせてもらう。

作りたいものがまだ自分の中でスッキリしていないのに「いいから出せ」で発売し、その不振を「作ったやつのせいだ、考えたやつが悪い」でユーザー、開発共々責任問題にして、誰も望まない環境で誰も望まない作品を作ったことに誰も反省しない、互いに不幸を押し付けあうそのやり取りを「仕事」と呼ぶゲーム制作会社はもはや働き方を間違えている。お前たちはゲームを何だと思っているのか。いや、仕事を何だと思っているのか。

決算の都合でNGSの未完成品を出してユーザーに呆れられ、池袋にゲーセンを建てなおして「第1弾!」と銘打ってやる気を出していたはずのゲームセンター事業を他社に譲り渡してまで資金繰りし、何年も評判を落とす失態を繰り返しながら今なお「僕たちは仕事を頑張ってるんです、助けてください」という顔をする現在のセガに向き合う私としては、中裕司氏の今回の主張はとても他人事とは思えない。

親方の語る思想に付き合わず、「どんなものを作りたいか」に心を動かさず、金と納期と世間体のために勝手に苦労して勝手に人を攻撃する。そんな働き方は、特にゲーム制作にかかわる人間ならば、今すぐあなたの作品のために、あなたの作品を見て育つあなたの子供たちのために、やめるべきだ。

# 中裕司氏の作りたかった「ゲーム」の本質とは

ゲームクリエイターを目指す人が読者に居てくれたらぜひ聞いてほしい。ゲームを作るにあたって必ず描かなければならない「世界」とは壮大で心躍る言葉だが、そもそも世界とはどのように生まれるのか?を思案したことはあるだろうか。

社会はすべて、ルールによって作られる。個体差のある同種の生き物が共通の目的のために、多少の息苦しさを感じてでも利益の最大公約数を得られるよう制定するのがルールである。わかりやすく言えば法律だが、小さな単位では条約、家訓、掟、約束といった言葉でルールは認識されている。個人においては信条、矜持、呪いといった言葉で表されることも多い。

そのような雑多なルールを共有し、同じ見識のもとで生活を行うその空間を一般には「社会」と呼ぶ。小さな単位では家族や恋人でも社会だ。近頃ではギルド、クラン、コミュニティ等のカタカナ語で認知している人もいるだろう。その社会=コミュニティにおいては、独特の文化に発展し「業界」「界隈」といった呼び方もされるようになっていく。

ここ数年、人々の生活に溶け込んで大きく意識を改革した「社会」の存在としてSNS(社交ネットワークサービス)が挙げられるが、これは現実社会のルールを持ち込んだ似て非なる世界であり、拡張現実のひとつだ。人々はTwitterやFacebook、Instagram、Youtubeの中で私のアイコンのそれような被り物をし、仮面舞踏会のように互いを隠しながらの交流を行って社会性を確保していく。

仮面を暴かれて、あるいは仮面が意味を成さないほどに有名になってひとたび失態を晒したとき、周囲の参加者は各々の現実社会での社会性のために無責任な立場から罵詈雑言を浴びせる。現実社会とTwitter世界を自らリンクして行き来しながら、現実社会のルールをTwitter内に持ち込んで、政治や経済、性別、容姿に関する善し悪しの論争を行う。これが2022年現代におけるソーシャル、社交性、つまりSNSの皮をかぶった現実社会のルールだ。近頃はTikTokやVRChatなども盛んになり、現実を拡張したSNS内の疑似社会はマルチバースの形相を帯びてきている。だが、現実社会のルールを持ち込んでいる限り、そこは現実社会が拡張されただけの同じ空間、同じ世界だ。

人々がこういったSNS、ソーシャルゲームと呼ぶものに触れる前からコンシューマ業界で展開してきたゲームは独自の世界でのルールを定義してきた。それはゲームが持つ役割が「ちょっと現実とは別のルールで楽しんでみないか?」という別世界への勧誘であり、世界変革の提案だったからだ。


「そんな大きなイメージの話を藪から棒に」なんて呆れる人もいるかもしれないが、古代より人々は「ところでこれって意味あるの?」という独自のルールを課して娯楽や競技を生み出している。突然ジャンケンのローカルルールを生み出したバカは周りに居なかったか?

例えばサッカーや野球はどうだろう。なぜボールを蹴ったり投げたりするだけで得点が入る仕組みなのだ?それは誰が考えて、誰が同意して、誰が広めた?現実社会で食べ物を探して飲んで食って愛し合って寝て生きるには全く関係のないことだ。もっと言えば、どうしてボールを足で蹴って大きなカゴに入れただけでお金や名誉がもらえるのだ?君たちは何が楽しいのだ?…それがルールであり、社会であり、ゲームだからだ。

サッカーや野球は現実で楽しむ娯楽としてはかなり経済活動や社会性に富んだものだが、その本質は現実とはなんら関係のないただのゲームだ。2022年現在においてPlay to Earnを最も早く実現した娯楽のうちのひとつと言えよう。だが現実社会のルールを持ち込んだことにより、サッカーや野球という一つのP2Eゲームは現実と融合してしまった。もはやそれは「現実社会を遊んでいる」にすぎず、ゲームとは認識されない。同じことがサバイバルゲームの界隈で起きたとき、「サバゲー」と呼称して一種の別世界、演劇、ゲームを楽しんでいた愛好者たちは一様に「現実社会の利権とかと絡んじゃって…昔はこうじゃなかった…」と嘆くことだろう。

「ソーシャルゲーム」と名が付き現実社会の利権や地位、経済と結びついたデジタルゲームは現実社会のルールに近づきすぎた。もはやMRやXRやメタバースと呼ばれているものは仮想現実や拡張現実といった枠組みではなく現実の代替にすぎない。これまで友達と独自のルールで競いあって「男子はほんとバカよね」「ゲームなんて役に立たないからやめなさい」なんて言われながら遊びを楽しんでいたのに、プライベートの娯楽が上司や取引先との関係に影響するような事態がソーシャルゲームやSNS、VRゲームで起きていて、公私混同も甚だしい。ゲームを求めていた子供たち、ゲームを作ってきた大人たちは、決して現実社会と融合するためにゲームと向き合ってきたわけではないのだ。

中裕司氏をはじめとする、デジタルゲームの大御所たちは何を一体作ってきたのか。彼が繰り返し訴えている、作りたかった「ゲーム」の本質とは、この世とは異なる構造、景色を持つ異世界、空想の先に広がる「違う世界の体験」そのものだ。それは即ち「新しい世界のシステム(ルール)」である。

ゲームクリエイターが見せる世界は現実とは違って見えなければならないのだ。現実のような世界を体験したければ、PCの電源を今すぐ切ればいい。

# 中裕司氏が残した世界、縁結びの神様にもできなかったこと

高価なWindows PCを用意せずとも楽しめる、家庭用ゲーム機向けのオンラインゲームとして発売されたファンタシースターオンラインは、鬱屈としたムラ社会で生きるしかなかった多くの人々に「新世界のルール」を提供した。それは傍から見れば単なる娯楽でしかなかったが、貧困地域の子供たちがポケモンを通じて「豊かな近代国家の日常」を感じることができたように、濁りきった日本の社会や政府が醸し出す、腐海のような空気に耐えられずにえずいていた人々にとって、PSOの提供する新しい世界は息をするためには十分な光明だったのである。

PSOのコミュニティ内では、互いがゲームルールを認めてPSOの世界観を一緒に構築していることこそが正義であった。現実社会の事情を持ってくる者はあまり歓迎されず、現実とは違った「別の姿」で、純粋に「新しい生き方」「新しい関係性」を求めて旅をする遊牧民のような接し方が最も求められた。そこに「同じ会社の上司」や「現実の著名人、権力者、資産家」の存在はタブーでないにしろ野暮であり、果ては「実社会での恋人」ですらも、その存在意義を保てなかった。PSOの中で活発に動き、野暮ったい言動がうるさかった男性は、下半身不随で病院から出られない人生が楽しく変わったことを語ってくれた。自意識に違和感のあった女性は、RAmarの渋い男性で一人称を「俺」にすることで豊かな自分を取り戻していた。新しい世界に旅立った者たちは、文字通り”他界”していたのである。

人々は一斉にこれまでの人生や世界と決別し、「ネットワークに接続しました。ファンタシースターオンラインの世界へようこそ。」という先進的なメッセージと共に違う人生を歩むための新天地の空気を吸った。「インターネット・タイム」と呼ばれる新たな時間軸を背負って、「ここは現実ではない別のどこかなんだ」と信じることができた。

そこでは人々は日本語や英語でチャットを行い交流はしていたものの、新しい世界でコミュニケーションを行うために、たまたま知っている言語を取り扱っていたにすぎない。PSOに機能として提供されていた、定型文を選択するだけで自動翻訳され相手の指定した言語で表示される「ワードセレクト」はプレイヤーから見ればただの”便利な機能”だが、ゲームの品質に組み込まれた中裕司氏のメッセージを読み解く限り、あれは「宇宙船の中で身近に繋がるハンターズ達の言語がバラバラなわけがない」という世界観への言及だった。つまり、あのワードセレクトは現実社会での言語の壁を取り払って「現実ではないことを認識させる」ために作った『ラグオル語』の体現なのだ。

同じ惑星、同じ宇宙に生きるハンターズ達が”ギルド”を通して一本に繋がり、互いの意思疎通のために生み出した公用語、それがラグオル語でありPSOの世界観が表現してきたことだ。ギルドに所属するハンターズ達や、パイオニア2に住まう人々は日本語や英語なんかでは話していない。転生前の言語を操ってあたかもラグオル語を話しているかのように接してきた私たちは所詮「混ざりモノ」で、中裕司氏が招きたかった地球のプレイヤーたちではあるにしろ、中裕司氏が描きたかった「ラグオルの人々」そのものではない。

直接には表現されていないが、「なぜPSOの参加者同士が共通言語で話せないなんていう滑稽な事態が起きるんだ?」という世界観に関する疑問を解決するため、中裕司氏はワードセレクトを用意してくれた。そのおかげで、私は日本国内にかかわらずイギリス、ドイツ、スペインに住まう友達と一緒にラグオルを冒険し、友人はギリシャ人と淡い恋に落ち、また別の友人は台湾の友達に贈り物をもらったりして、「ラグオル語」を通じてラグオルという世界でひとつになれたのだ。これはオンラインゲーム、ソーシャルゲームが十分に成熟したと嘯かれる2022年の現代において、現実社会のルールに囚われ続ける哀れな開発者達が躍起になって探し求め、いまだ次の到達者が現れない桃源郷の極致だ。

中裕司氏は世界進出や世間での評判を考えてそんなことを設計したのではきっとないだろう。「日本人とアメリカ人と中国人が一緒に別世界の一員になっているのに、別世界の住人が別世界の言葉で一緒に交流できないのはおかしいだろ!」と思ったに違いない。この批評を仮に本人が苦笑いして否定したとしても、築き上げた世界観が少しでも崩れるようなことを、彼自身のワンダーワールドがひしゃげて歪な音を奏でることを、彼は絶対に許さない。そういうクリエイターである。

中裕司氏の「ギリギリまで調整」という表現で示される言葉には「俺はこの世に囚われない別世界をこの命を使って創っているんだ、黙っててくれ(追伸:完成したら招待状を送る)」という偏屈な主張が現れており、それは時間が来たからといってとりあげず、黙って応援し完成を待つべきなのだ。結果的に「非効率」であったり「働きすぎ」であったり、「社会性を考えてなくて人でなしだ」なんていう評価に繋がることも往々にしてあるだろうが、新しい世界を創って招待しようとしている人間にそんな世の中の都合は関係がない。彼の人柄上、チームが分解しないよう配慮してやり取りを続けていたとは思うが、彼が描く世界の中では、現実社会の金や時間や権力など何の価値ももたらさない。
(金ぴかに光るリングにはちょっとした価値があるかもしれない)

ゲームを作るとは、新しい世界のルールを作ることである。世界を創るとは「お前の大切にする社会など捨てて、俺と一緒に別の世界へ行かないか」つまりそういうことである。その様には今過ごしている社会・空間に退屈した人々を虜にする、旅立ちの魅力がある。現実社会と隔絶されていることが重要であり、それこそが魅力になる。それをわかっているから、彼らは現実社会のルールに囚われる必要がない。それがクリエイターだ。心当たりのない人は世界を創造しようとしているあなたの子供から、紙粘土や積み木や砂場やスケッチブックやパソコンや漫画やゲームをとりあげてみればいい。新しい世界を創ってそこに訪れたい人間に、あなたの都合は通用しない。

# 「PSO」は何を築き上げていったのか、多くのユーザーが共有した白昼夢のような体験

かくして、「現実離れした新しい異世界」への招待状を手にした我々は夢をキャストする宇宙船に乗り込んで、2001年宇宙の旅へと自らの手で舵を切った。到着した大型移民船には開拓者を意味する「パイオニア2」の名が付けられており、かつて愛した蒼き星と思わしき惑星は「母星コーラル」と呼ばれていた。パイオニア2に集まる人々からは「やぁ、君もコーラルから移民してきたのかい?」と声をかけられ、かつて自分たちよりも先に新天地へと向かった「パイオニア1」の人々の噂を聞く。

なぁみんな、覚えているだろうか。私たちはかつて、中裕司氏が招待してくれた別の宇宙に居たのだ。そこには地球のしがらみや、狭い社会での辛い思い出、それを想起させる自分の容姿による煩わしさからの決別、心の解放があり、新しい気持ちになれた。かつて愛した人々との繋がりは失われ、ふるさとを想起させるような安心感もない。そういう侘しさもあった。だけど、彼のゲームをはじめたその瞬間、私たちは別の宇宙の住人となったのだ。

そこには新しいルールが存在し、新たなコミュニティも形成された。皆がラクトンのように、「ここにワシの家を建てるのだ!」と一目散に駆け出してラグオルへの”移民”とそれを通じた”発展”を楽しんできた。そしてそこでは、総督府の管理が行き届かない未開の土地であるが故に無政府主義を楽しむことができた。人々はそれぞれがグループを組んで小さな政府となり、無秩序な宇宙空間の中に小さな秩序を乱立させては星の瞬きのように消えていった。


今でこそ「不正は運営が取り締まるべき」「コンテンツは運営が用意するべき」と、ディナーのフルコースを待ちわびる幼児のようなユーザーとそれに応え続ける開発者との共依存関係が各所に生まれているが、当時のセガないし中裕司氏はオンラインゲームという形で別世界を創ることを目的としており、前述のようなお客様を酒浸りにするスタンスでゲームを作ってなどいない。当時に「開発の事情でこれは実現できないな」と中裕司氏が判断した開発・運営上の問題がすべて「そういうルール=世界観である」と綺麗な形に落とし込まれていったからこそ、その本来なら欠落した部分すらもゲームシステムの一部となり、完成度に納得感が出るのである。そんなポリシーを作品にメッセージとして込めてきた中裕司氏から「話し合おう」と言われて顔をそむけるチームに、彼の作品は一生かけても作れやしない。

彼の作品の完成度の高さは、昨今のゲーム会社がこぞって競う見栄や虚勢やハリボテ、忖度を許さず、それを真っ向から否定する対極に立っているからこそ生まれている。PSOは招待された私たちが別世界に文化を作る移民の物語であって、衣食住すべてが揃った娯楽施設に招待してもらうお客様の物語ではない。それを中裕司氏はPSOで貫いた。だから今なお惑星ラグオルはそこに未開拓のまま存在し、生きているのだ。

ここでPSO2を引き合いに出すと、彼らはいかに「自分たちの世界観が現実とリンクしているか」を声高に語る。かつては「超現実」などといったキャッチフレーズを設けて現実離れをアピールしていたが、その実、公式サイトでは「開発者の御姿と声をお聞きください!」と当事者たちに会社の内情を話させてユーザーを「会社の味方」として取り込み、会社のために金を払わないやつは国賊だとユーザー間で罵らせ、低俗なSNSマーケティングで現実社会でのビラ配りに奔走し、自分たちのブランドをどんどん安売りして、売り上げのためという大義名分でPSO2の世界観と無関係なコラボ、イベントをひたすら増やしてオラクル船団にアニメのCMを流し、EP3で世界を救うストーリーに多少の没入感が生まれて世界観がなんとか豊かになってきた矢先にEP4では「実はあなた方はゲーム世界の住人なんですよww 東京で人気のPSO2です、ウケるでしょうwww」と世界観を崩壊させ、しまいには「妄想が加速するRPG」と称してプレイヤーたちが作り上げてきた世界観、没頭してきた別世界を「それってあなたの妄想ですよねw」で台無しにする愚行さえも見せた。

それら一連の行動が「地球を離れて別の惑星に移民する超現実」として提供されてきたPSOを愛してきた人たちを失望させ、憤慨させ、コントローラーを置かせてゲーム機の電源を切らせたのはもはや語るべくもない。

もう一度言おう。ゲームは現実社会の都合でなんてできてはいないのだ。

# 『ああ、この光。世界を救うのはAフォトンなどではない。フォトンなのだ…』

PSOの主題歌である「Can Still See The Light」には、世界を守って散っていった人を想い「私たちはなぜあなたを失ってまで生きなければならないのか」と哀愁を唄うメッセージが込められている。それは作中でパイオニア1に乗っていた家族、恋人を失い涙する遺族の心情ともリンクするし、愛娘でもある英雄「赤い輪のリコ」を失い途方に暮れる総督、コリン・タイレルの心情ともリンクするし、プレイヤー達が名もなき英雄として世界を救ったのちにログアウトして行方知れずになったあと私たちを偲ぶラグオルの人々の心情ともリンクするし、今こうやって中裕司氏がPSOの開発に関わらない、関われない現状を憂うゲームファン達の心情ともリンクする。

ファンタシースターオンラインに命とプライドを懸けて、きっと開発内部では疎まれることもあっただろうと思われる中裕司さん、ファンタシースターという日本における最大のSFファンタジーの世界観を確立してくれた小玉理恵子さん、今でこそ悪評のほうが勝るものの、当時のPSOの雰囲気作りに尽力されてきた酒井智史さん、多くの楽曲でSF異世界に生きる私たちを鼓舞し続けてくれた小林秀聡さん、そしてかけがえのない当時のソニックチームの方々。今ではもうセガとも関わりがないかもしれない、スタッフクレジットでしか存在を確認することができない、誰よりも勇ましく尊い名もなき英雄たちよ。

忘れないでいてほしい。PSOとNGSを見つめ続ける私たちは、残されたこの世界でとめどなく血を流しながら、「果たして何を得たのだろう」と自問自答しつつ、まだあなたが守った光を大事にとって、見つめているのだ。

2022/05/01:一部言い回しを修正・追記
2022/05/11:一部を加筆修正、誤字、脱字を修正

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