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私とリコーダー #7

 皆さん、リコーダーというと、どういうイメージがあるでしょうか?私ぐらいの世代(昭和40年生まれ)だとランドセルに差したあのソプラノリコーダーですね。黄土色の巾着袋に入ってたプラスチックのリコーダーです。そんなイメージというか思い出があるでしょうか。そのリコーダーと私がいかに関わってきたかをここで話してみたいと思います。

中学時代
私のいた青梅二中にはリコーダークラブという必修クラブがありました。このクラブなんですが、リコーダーオーケストラといって全員で60名ぐらいはいたでしょうか。高音域を担当する、一番小さくソプラノリコーダーの1オクターブ上のクライネソプラノリコーダーから、低音域を担当する、ソプラノリコーダーの3オクターブ下で管が長く途中で折れているグレートバスリコーダーまで大小さまざまなリコーダーで構成されていました。もちろんリコーダーオーケストラ用の楽譜なんてなかったですから、編曲は顧問の偉大な先生がやっていました。リコーダーにはC管(クライネソプラニーノ、ソプラノ、テナー、グレートバス)とF管(ソプラニーノ、アルト、バス)があって、それらをオクターブで合わせ、所々をパートごとのソリストが担当しメリハリをつけるというような編曲でしたね。ですので、例えが適切かどうか分かりませんが、響きはパイプオルガンのようであったと思います。それで二中は当時、リコーダーの全国大会「合奏の部」で毎年金賞を受賞していましたから、自分が中3の時は「この伝統を崩してはならない」とすごいプレッシャーでしたね。そういうわけで必修クラブであったのに関わらず、コンクールが近づくと朝練、昼練はありましたね。

大学時代
 
高校は吹奏楽部でトランペットをやっていて、リコーダーとの接点は全くありませんでした。明治大学に入るとリコーダーアンサンブルというサークル(同好会)に入りました。全員で25名ぐらいだったでしょうか。年に1回の12月の定期演奏会がメインで、あとは新入生歓迎コンサートと伊豆での夏合宿などの活動をしていました。合奏は特にやっていなくて、それぞれが四重奏か五重奏とかをメンバー組みして演奏、活動している形だったですね。そんなリコーダーアンサンブルでしたが、大学3年の時に大きな転機が訪れました。それは明治大学スペインギターアンサンブルとのジョイントコンサートです。こちらは大学非公認のイチ同好会でしたが、ギターアンサンブルは大学公認の連盟に加入していた正式な部で、リコーダーの可能性を広げたい、自分の大学での交友範囲を広げたい、ひとつのチャンスだと思い、4年生からは反対にあったのですが3年生以下は賛成だったこともあり、ジョイントコンサートに参加しました。コンサートの構成はひとつ大きな曲を合奏でやって、あとは小さなアンサンブルをグループごとにやりました。
ジョイントコンサートは概ね成功だったと思います。少なくともリコーダー
とギターの相性がとても良いことがわかりました。ギターアンサンブルのメンバーとは、ジョイントコンサート後もこちらの定期演奏会に出演してもらったり、また卒業後もラグビー観戦に行ったりなど交流は続きました。
 リコーダーアンサンブルでの4年間は、小規模なサークルでしたが、その分、先輩、同期、後輩との結びつきが強くて楽しく密度の濃いものでした。

社会人時代
1.夕やけアラカルトとしての活動
 私は25歳ごろから、仕事と並行して、当時習い始めたフルートでアマチュアとして演奏活動をしていました。リコーダーも演奏活動に取り入れたいと思っていましたが、ピアノとは相性があまりよくなく、同じアマチュアのギター奏者を探していました。先ほど申し上げた通り、大学時代、ギターとのアンサンブルで成功体験があったのも理由のひとつです。その結果、あるギター教室で、自分より3歳年上の玄人はだしのクラシックギター奏者と出会うことができました。そこで、フルートとリコーダー(持ち替え)+クラシックギターのユニット、「夕やけアラカルト」を結成し、演奏活動を始めました。リコーダー+ギターのレパートリーはバロック時代のリコーダーソナタのギター伴奏編曲版、フルートとギターの作品を転用したもの、リコーダーとギターのためのオリジナル作品、その他編曲もの(編曲は私はできないのでギター奏者が担当)などでした。演奏活動としては、アマチュアの各種ジョイントコンサート、自治体後援の演奏会、各種音楽教室の演奏会、結婚披露宴や二次会での演奏、喫茶店を借り切っての自主演奏会などかなり活発にやっていました。しかし、レパートリーをやりつくしたということで5年ほどで活動を終えました。同じアマチュアとしての立場で5年間演奏活動ができたのは信頼関係、友情があったからだと思います。ギター奏者の方には今でも感謝しています。
2.青梅リコーダーオーケストラの一員としての活動
夕やけアラカルトの活動と並行して、28歳ごろに地元の青梅リコーダーオーケストラに入りました。この団体は多い時で総勢40名ぐらいだったでしょうか。青梅二中、七中、一中のOB・OGがメンバーの主体でした。改めて青梅ってリコーダーが盛んだったんだなと認識しました。指導者は先述した青梅二中のリコーダークラブの偉大な先生で、編曲のスタイルは二中時代と変わらぬものでした。先生は既に70歳を超えており、現役を引退してらっしゃいましたので、編曲活動に力を入れ、レパートリーは相当増えていました。またリコーダーオーケストラのためのオリジナル作品の作曲も行っていらっしゃいました。活動としては、年に1回の河辺市民センターでの音楽祭への参加、小学校での出張演奏、それとリコーダーコンクール「合奏の部」にも毎年出場していました。都大会予選落ちも経験しましたが、全国大会にも行き、そこで金賞を何回か獲ることができました。演奏を終え、審査発表の時、「青梅リコーダーオーケストラ、ゴールド金賞!」とコールされた時には、メンバーの皆さんと雄たけびを上げたり、握手をしたりして盛り上がったものです。青梅リコーダーオーケストラの演奏レベルの高さは、ひとえに指導と編曲・作曲をしていただいた二中時代の偉大な先生によるものだと思っています。青梅リコーダーオーケストラは40歳になるころまで活動しておりましたが、本業の方が忙しくなってきたため引退しました。

そしてこれから
 
私は間もなく定年退職を迎えます。その時はもう一度地元青梅のリコーダーサークルに入り活動したいと思っています。メンバーは旧知の方ばかりですので、きっと暖かく迎えてくれることでしょう。
 最後にリコーダーの魅力って何でしょうか。いくつかあると思うんですが素朴な音色がひとつあげられるでしょう。日本語に置き換えると「郷愁」という言葉がふさわしいかもしれません。
 最後まで読んでいただきどうもありがとうございました。


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