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7. 本はインスパイアする! 中村雄二郎 『パトスの知 ―共通感覚的人間像の展開』 筑摩書房 1982

あくまで個人的な事情

筆者は日本語研究を進めるにあたって、日本語学、国語学、言語学、社会言語学などの分野だけでなく、隣接する知的領域にヒントを求めることがある。日本語の情意というテーマを追っていた頃、筆者は哲学者中村雄二郎氏の「パトスの知」、「共通感覚」という概念にめぐり逢った。中村氏は全集としてまとめられている作品を含む膨大な著作で独自の哲学思想の世界を描いており、筆者はなるべく多くを読ませていただいたが、その斬新で繊細、美的で情的な哲学構築の全体像を理解するまでの勉強はできていない。

しかし、そのころ何冊かの著作をすでに読んでいて、その中の一冊の裏表紙に顔写真があり、おぼろげながらどこかでお会いすれば、氏であるとわかるようなイメージは持っていた。そして筆者にとって忘れがたい1997年5月がやってくる。その日、たまたま投宿していたニュージャージー州、プリンストンのナッソー・インで、日本文化に関係する学会に出席なさっていた中村氏を発見(!)したのである。インのダイニングルームで朝食をとっているとき、斜め向かいの席に座っていらしたのである。筆者から、「中村先生でいらっしゃいますか」と話しかけ、あまりに興奮していたため、実は先生のファン(?)ですというようなミーハーなお声かけをしてしまい、名刺を交換させていただいたように覚えている。それから、『情意の言語学 ―「場交渉論」と日本語表現のパトス』を2000年に、先生のご自宅にお届けしたことも含めて何年か、近しくしていただいた。この日の出来事は、今考えても全く偶然で不思議な、しかし筆者にとっては素晴らしい運命的なめぐり逢いであった。中村氏にお会いできたことで、それまで試行錯誤を繰り返していたパトス的な言語の理論と、それを踏まえた分析というテーマに、可能な限り取り組んでみようという決意を新たにすることができた。

本のメッセージ

中村氏は本書で、西洋的な近代文明の問題点(アポリア)をあげ、それをパトスの知と対照的に捉えながらパトス的に解決することを提案する。現在私たちが近代日本のアポリアを課題として捉えようとするなら、西洋的なアプローチではなく、もっと分散化した具体的なものを認める必要があると説く。例えば、個に対する共同体、主体より重要と考えられる場所、科学に対する日常性、機械技術より手づくり、論理を超えるレトリック、機械運動ではなく生命的リズム、等々である。この前者と対照的に提示される後者のパトス現象を、日本語研究に照らし合わせてみると、西洋の理論言語学ではなく、レトリックを含む人間的な解釈・枠組みこそが重要なのだと理解できる。

中村氏は言う。「科学の知は、事物を対象化し操作する方向で、因果律に即して成り立っている。そしてその際、見るものと見られるものとは分裂し、そこに冷ややかな対立がもたらされる。このように科学の知が操作的な知であるのに対して、<パトスの知>は、環境や世界が我々に示すものを、いわば読みとり、意味づける方向で、シンボリズム<シンボル体系>とコスモロジーに即して成り立っている」(p.36)と。中村氏はあくまで哲学の概念としてパトスの知を提唱するのだが、それは、筆者が追求していた言語観・日本語観を根底で支えてくれる力となっていった。

中村氏は、著書『西田幾多郎』(岩波書店1983)をはじめとして、何冊か西田哲学について論じておられることでもわかるように、西田哲学を情熱的に紹介している。筆者は独自に西田幾多郎、和辻哲郎、森有正、などの哲学・社会文化学に興味を持っていたこともあり、中村氏の立場によってさらに勇気付けられたのである。具体的には、筆者がその頃から読み込んでいた西田哲学における述語中心主義に関してで、日本語表現は、主語中心ではなく、述語中心(場所中心)であるとする立場である。

西田は、その著『西田幾多郎全集 第4巻 働くものから見るものへ』(岩波書店1949)で、「判断は主語と述語とから成り立つ。特殊なる主語が一般者なる述語の中に包摂せられるのが判断の本質である」(p.177) と述べる。判断とは一般が自己限定の作用をすることであり、そしてその一般とは豊かに自己において自己を映すような世界、つまり述語的場所のことであると強調する。要するに、従来は主語中心であったものを逆方向で述語中心に考えるべきであると主張するのである。判断の背後には述語面がなければならないのであり、述語面は具体的一般者つまり超越的述語面として場所的に機能し、一方主語はどこまでも述語という場所に依存しながら存在する。西田にとっての場所は、自分と物がともにそこに「於てある」場所であり、つまり、存在を根源的に可能ならしめる場所、無の場所であるが、それは超越的述語に支えられている場所でもある。

中村氏は、この西田哲学の超越的述語面としての場所という構想を評価し、それがいかに画期的な思想の転換であるかを指摘する。『中村雄二郎著作集 X トポス論』(岩波書店1993)で、中村氏は、西田が述語的場所の重要性を主張したことで、その哲学は「西田哲学」と初めて固有名詞で呼ばれるようになったと評している。そしてこの西田の企てが主語論理主義から述語論理主義へのコペルニクス的転換であったことを確認し、「それをとおして、すべての実在を述語基体(無)によって根拠づけ、無の場所を有の欠如ではなく無底にして豊かな世界としてとらえたのであった」(p.67) と結んでいる。何という美しいまとめ方なのだろう! 中村氏の論述は、的を得ているだけでなく感動的なのである。

本がもたらすインスピレーション

西田はそれまでの多くの西洋哲学に共通する主語論理主義の立場から、述語論理主義の立場への転換を行った。すべての実在を無によって根拠づけ、無の場所を豊かな世界として捉えることに成功した西田哲学は、まさに革命であったと言える。

しかし、それ以上に、ある学者の思想を、現代の社会・文化の中に導き入れ、その有意義性を人間味あふれる筆致で表現する中村氏の著書こそ、読者にインスピレーションを与える本である。学問は今の私たちの日常生活との結び付きを欠いてはならない。それが哲学的な形而上学的なものであっても、である。特に日本語研究は、学問の対象である日本語が、社会で使用されることで初めて認められるのであるから、現実からかけ離れた空論では意味がない。中村氏の哲学は、常に社会・文化に敏感であるため、日本語研究に多くのヒントを与えてくれる。『パトスの知 ―共通感覚的人間像の展開』は、他の中村氏の著書と同様、筆者にとっては感動を呼ぶたよりになる一冊である。


■この記事の執筆者
泉子・K・メイナード(Senko K. Maynard)
山梨県出身。AFS(アメリカン・フィールド・サービス)で米国に留学。甲府第一高等学校およびアイオワ州コーニング・ハイスクール卒業。東京外国語大学卒業後、再度渡米。1978年イリノイ大学シカゴ校より言語学修士号を、1980年ノースウェスタン大学より理論言語学博士号を取得。その後、ハワイ大学、コネチカット・カレッジ、ハーバード大学、プリンストン大学で教鞭をとる。現在、ニュージャージー州立ラトガース大学栄誉教授(Distinguished Professor of Japanese Language and Linguistics)。会話分析、談話分析、感情と言語理論、語用論、マルチジャンル分析、創造と言語論、ポピュラーカルチャー言語文化論、言語哲学、翻訳論、日本語教育などの分野において、日本語・英語による論文、著書多数。
くろしお出版から刊行の著書

■この記事で取りあげた本
中村雄二郎 『パトスの知 ―共通感覚的人間像の展開』
1982年刊 筑摩書房


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