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5. 本はインスパイアする! 時枝誠記 『国語学原論』 岩波書店1947 [1941]

本とのめぐり逢い

筆者は大学生のころ東京文京区に下宿していて、神保町の古本屋街に行くのが好きだった。すずらん通りには学生相手の食堂もあった。アメリカで言語学を志すようになってから帰国した際、やはり訪ねたのは古本屋街であった。「一誠堂書店」のラベルが付いた1947年版の時枝誠記著『国語学原論』は、そのなつかしい街で購入した貴重な一冊である。購入したときの状況は、はっき覚えていないのだが、現在自宅の書棚にあることから、いずれかの方法でアメリカまで持ってきたのだと思う。もっとも、戦後すぐの日本で出版されたためだろう、紙質は悪く、完全に変色・劣化していて、今にも破れそうなページは要注意なのだが。

本のメッセージ

時枝は、日本語を基盤にして、本格的な言語理論を完成させた学者である。その理論の核心と言えるのは「言語過程説」で、言語を抽象的なシステムとして捉えるのでなく、話し手がある場面で発話する心理過程を示すものだとする。

時枝の日本語論は、伝統的な国語学、とくに江戸時代の国語学者鈴木朖の『言語四種論』と、その述語的世界の支配という観点で結び付いている。つまり、述部・陳述に優位性があり、それが他の部分の基底となっているとする立場である。鈴木は日本語を、三種の詞(体の詞、作用の詞、形状の詞)と「テニヲハ」に分け、詞には概念化・客体化の過程が含まれるのに対し、「テニヲハ」は「心の声」をあらわすとしていた。時枝は、この「テニヲハ」を辞と呼んで、詞とは異質のものであるとした。鈴木と同様、時枝にとって重要なのは、辞による陳述を含む世界である。西洋の文法論にありがちな主語・主体中心論ではなく、述語部分、辞による陳述を含む世界が重要であると主張した。こうして時枝は日本語表現を、詞を辞が包み統一するという形で分析し、これをかの「入子型構造」の形式によって示したのである。言語を主体の表現過程であるとするなら、最終的には主体の辞的な陳述が言語を支配するとするのも合点がいく。

本がもたらすインスピレーション 

時枝の詞と辞、入子型構造、場面の重要性、述部の優位性、という立場は、筆者が言語学を学んでいた頃、アメリカで主流をなしていたチョムスキーの影響が残る言語学とは、根本的に異なるアプローチであった。筆者は、当時の統語論・意味論中心の理論言語学に違和感を感じていたのだが、そんな孤立感の中で、時枝が映し出す国語学の世界は、情的で詩的に感じられた。言語学とは、それを構築する言語によって異なるのが当然ではないか、少なくとも異なる言語から発信される理論を認めるべきではないか、という思いは、留学生にありがちな西洋一辺倒に陥ることから筆者を救ってくれた。西洋の学問を真剣に吟味することなく、ただありがたく受け入れるという傾向は、あまりにも軽々しい態度であると筆者は思っている。(日本からの留学生、また日本の研究者の一部にありがちであるが、国外の学会に出席し、そこで知識人から認められるように外国の文献のみを使うというのは、意図的ではないかもしれないが、媚びを売るようで残念である。)(……もちろんのことですが、知へのアプローチに何をどう選ぶかは研究者の自由です。筆者の意見は、あくまで個人的な感想に過ぎません。気分を害す方がいたら、ごめんなさい。)筆者はこの頃から、西洋の学問の枠組みと日本の学問の伝統との間で、自分の理論を打ち立てようと、そんな学問を追求したいと思うようになっていた。

時枝の場面という概念は、「場所」との関連があることから、筆者は日本の哲学で独自の理論を打ち立てた西田幾多郎の著作に、魅力を感じるようになっていた。そしてその過程で、日本語学は他の学問、特に哲学との結び付きを無視してはならないことを学んだ。時枝の、辞で詞を包むという考え方は、まさに西田の述語世界と呼応するのである。主体は辞の働きにあるとする時枝の立場は、超越的述語面を基底にして我を意識するという西田の立場と共鳴する。結局時枝は、客体は主体によって、つまり「場面」における主体の辞的な陳述によって可能になると強調したのであり、それはまた西田が、「我」というものが述語によって、つまり「場所」によって決定されるとしたのと符合するのである。

あの日、古本屋街で偶然見つけた『国語学原論』は、アメリカの大学院で言語学を学んでいた筆者を、日本の学問へ誘ってくれた。いつか東洋の国語学を英語で世界に紹介し、そこから自分の理論を打ち立てようという希望を持つきっかけのひとつとなった時枝の名著は、(ページを破らないように注意しながら)まだまだ読み直したい一冊である。


■この記事の執筆者
泉子・K・メイナード(Senko K. Maynard)
山梨県出身。AFS(アメリカン・フィールド・サービス)で米国に留学。甲府第一高等学校およびアイオワ州コーニング・ハイスクール卒業。東京外国語大学卒業後、再度渡米。1978年イリノイ大学シカゴ校より言語学修士号を、1980年ノースウェスタン大学より理論言語学博士号を取得。その後、ハワイ大学、コネチカット・カレッジ、ハーバード大学、プリンストン大学で教鞭をとる。現在、ニュージャージー州立ラトガース大学栄誉教授(Distinguished Professor of Japanese Language and Linguistics)。会話分析、談話分析、感情と言語理論、語用論、マルチジャンル分析、創造と言語論、ポピュラーカルチャー言語文化論、言語哲学、翻訳論、日本語教育などの分野において、日本語・英語による論文、著書多数。
くろしお出版から刊行の著書

■この記事で取りあげた本
時枝誠記[著]『国語学原論』
1941年刊(初版)岩波書店
出版社の書誌ページ


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