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仏伝の翻訳


第一節 はじめに

 2024年、年明けと共に立て続けに日本に不幸な出来事が起こりました。1日は石川県の能登半島の大地震。2日は、東京の羽田空港で救援物資を届ける海上保安庁の飛行機と、日本航空の接触炎上事故。3日は秋葉原で通り魔事件と、北九州の大火事。
 被災や事故、事件に巻き込まれた方々も苦しまれていますが、それに心を痛めている方々も苦しいと思います。
 気休めにもならないかもしれませんが、ごく短いブッダの伝記を翻訳しました。時には現実から気持ちを離し遠くに向けることが必要ではないかと思います。ブッダは前5~6世紀に活動し、この伝記は2世紀頃の後漢の時代に執筆されたという伝承を持つものです。〈人智を超えた存在〉の伝記。よろしければお読みください。

第二節 仏伝 ―『弘明集』巻第一「牟子理惑論」より―

 問う。ブッダはどこから生まれたのでしょうか?〔ブッダには〕先祖、及びお国は有るのでしょうか?〔ブッダは〕何を〔人々に〕施し行ったのですか?〔ブッダの〕ありさまはどのような類なのでしょうか?
 牟子は〔答えて〕言いました。素晴らしいですね、質問が。〔しかし、あなたの〕請いに十分には答えられません。〔だから〕大切なところだけ、簡略に説きましょう。聞くところよりますと、ブッダが現れたそのありさまは、〔繰り返し生まれ変わりながら〕道に至る徳を積み重ねること、数千億年でして、〔誰も〕記録することはできません。
 そうは言いましても、ブッダに成られた時に限れば、〔ブッダは〕天竺にお生まれになりました。〔そして〕白浄王とその王妃のところでお姿を仮りられました。〔王妃は〕昼寝していて、六本の牙のある白い象に乗っている夢を見られ、とっても喜ばれたそうです。そこで突然、感得して懐妊されたようです。四月八日のことと伝えられています。〔ブッダは〕母の右の脇から生まれ、地に落ちると七歩歩まれました。〔そして〕右手を挙げて、「天上にも天下にも、私を超える者はいない」と宣言致しました。その時、天地は大きく動揺し、宮殿はすべて輝きに満ちたそうです。〔また〕その日、王家の青衣(奴隷)は一人の赤子を産み、厩(うまや)の中では白馬も白駒を産みました。奴隷の〔赤子の〕名前は車匿(チャンダカ)、白駒の名前は揵陟(カンタカ)です。王は常に〔車匿(チャンダカ)と揵陟(カンタカ)〕を太子に従わせました。
 太子には〔聖人たる〕三十二の特徴、八十種類の素晴らしい〔しるし〕があったそうです。身長は一丈六尺(4m80cm)、体は金色、頭頂には肉髻があり、頬は獅子のようでした。舌は自分で顔を覆うことができます。手には千の車輪の紋様があります。頭頂部から放たれる光は万里を照らします。ブッダのお姿の特徴を簡略に説き示しました。
 〔太子が〕十七歳に成られると、王は〔太子に〕妃を迎えようと決めました。隣国の女性です。太子は座る時は〔妃と〕席を離し、寝る時は別々のベッドで寝ました。〔しかし〕天の道はたいへん明白であり、陰(女性)と陽(男性)とは通じ合うものです。〔妃は〕突然一男を懐妊しました。六年もかかってお生まれになったのです。
 父たる王は太子を偉大な珍事であるとして宮殿と楼観を建てました。さらに多くの妓女を住まわせ、財宝を〔太子の〕前に並べました。〔しかし〕太子は世間の楽しみを貪ることができず、〔太子の〕心は道に至る徳に在りました。
 〔太子〕十九歳〔の誕生日の〕四月八日の夜中、車匿(チャンダカ)を呼び出し、揵陟(カンタカ)を牽かせて、これに乗りました。鬼神が助け、飛んで宮殿から去ったと伝えます。翌日、〔太子の部屋は〕ガランとしていて〔誰も太子の〕居場所を知りません。王と民衆〔の中で〕悲しまない者はいません。王は太子を追い〔遠い〕田んぼまで行くと、「お前が生まれる前、私は天の神、地の神に祈りを捧げた。今お前は成長し、〔翡翠の〕玉のように美しく、〔水晶の〕珪のように美しい。将来、王位を継がせようと願っていたのに、〔お前は〕去ってしまった。どうしてなんのだ。」と叫びました。太子は「あらゆるものは無常です。〔今〕あったと思っても、将来には滅んでしまします。今、道を学びあらゆる世界の人々を救いたいのです」と答えたそうです。王は〔太子の志が〕ますます堅固と知ると、突然立ち上がって〔そこから〕去りました。太子もまたすぐさま去りました。
〔太子は〕道を思い六年、ついにブッダに成られました。夏の初め、生き物にとって寒くもなく、暑くもない頃です。草や木や花は美しく、寒さに備える狐の毛皮も、暑さに備える葛の服も必要なく、丁度良い季節でした。ですから天竺にお生まれになった〔ブッダ〕は、天と地の間で、〔あらゆる人々の争いを〕和らげるのです。
 〔ブッダが〕著した経はおおよそ十二部です。全部で八億四千万巻です。大部なものは万言以下、小部のものは千言以上です。ブッダは天下を教授し人民を救われました。
二月十五日に、お亡くなりになり〔この世を〕去られても、その十二部の説法集と戒めは引き続き存在致しますので、これを修行することはできます。また無為〔の境地〕を得て、幸福を後世に伝えることもできます。五戒を持する〔在家信者〕はひと月に六斎を開き、斎の日は心を一つに専心して、懺悔し自ら新たにします。沙門〔という男性の出家者〕は二百五十の戒を持し、毎日斎〔に招かれます〕。その戒は男性の在家信者が聞き得るものではありません。〔沙門の〕威儀や歩み方は〔我が国の〕古の典籍〔に記された〕礼とは異なるものではないのです。一日中夜が終わるまで道について講じ、〔ブッダの〕経を読誦されています。世間の仕事にはかかわりません。老子は「孔子のありさまはひたすら道であって、これに従っていた」と語りました。それはまさにこのようなものです。

第三節 仏伝の背景



 この短い仏伝は私たちのよく知っているブッダの伝記とあまり違いません。中国の梁の国、僧祐(そうゆう)という名前の僧侶が編集した『弘明集(ぐみょうしゅう)』巻第一に収録された『牟子理惑論(むしりわくろん)』という書物の一部分です。
 梁(502~556)は中国の南半分の江南地域を領土にした王朝です。都は建康、現在の南京です。北半分は華北と呼び北方遊牧民の拓跋部(たくばつぶ)が北魏(386~534)という王朝を樹立していました。北魏は平城(現在の大同市)から洛陽に遷都したので、時期によって都が違います。華北と江南に異なる王朝が存在したので、南北朝時代と言います。
 七百の大寺院が建立されるほど梁で仏教が栄えましたが、中国伝統の儒教から多くの疑問、批判が投げ掛けられました。そのような中、僧祐(445~518)は、梁に至るまでに仏教を護るために執筆された文章を一書に編集しました。それが『弘明集』です。「〔仏教を世に〕弘め明らかにする」という意味です。僧祐は都の建康の建初寺(揚子江の南)に住居していたようです。
 この『弘明集』巻第一の最初に収録されたのが『牟子理惑論』です。牟子(ぼうし)というのが作者、『理惑論(道理と惑いを論ず)』が書名です。この『牟子理惑論』は謎の本で『弘明集』に収録された形でしか、存在しません。謎の一つが、この書物が後漢時代に執筆されたということです。後漢の末期に有名な魏・呉・蜀の覇権争い、三国志の内乱が繰り広げられるのですから、伝承通りだと牟子は曹操(155~220)よりも年上になります。後漢の明帝(在位57~75)の時代、永平八年(65)にすでに仏教は伝播していたのが確実なのです。しかし仏典の漢訳の始まりは桓帝(在位146~167)の建和二年(148)頃で、まだまだ翻訳の数も行き届いていません。仏伝も十分には翻訳されていない時代です。桓帝の後継者、霊帝(在位168~189)の184年に黄巾の乱が勃発し、後漢王朝は徐々に崩壊します。そのような時期に牟子は『理惑論』を果たして書けたのか?『理惑論』の中にも霊帝時代の内乱について簡単な記事があり、牟子はそれを避けるために交趾(ベトナム)へ逃げたとまで記されています。もっともらしい記事なのですが、現在『牟子理惑論』はかなり後世に執筆されたものとして扱われています。牟子の著作ではないとは思いますが、梁の時代までに異教徒(儒教、道教)に対して応答するために『牟子理惑論』は書かれたことは確実です。
 因みに卑弥呼が遣使した記録は『三国志』「魏志倭人伝」、景初二年(238)。この当時魏の皇帝は明帝(曹操の孫・曹丕の子の曹叡、在位)、都は洛陽です。

第四節 仏伝の語句

 仏伝の翻訳中、それほど難しい言葉はないと思いますが。そこしだけ解説しておきます。

【白浄王(びゃくじょうおう)】一般に浄飯王(じょうばんおう)。ブッダの父であり、カピラヴァストゥ(現ネパール南部のルンビニー)の王。
【王妃】原文は「夫人(ぶにん)」。一般に摩耶夫人(まやぶにん)。ブッダの母。
【青衣(せいい)】召使いの別称。奴隷とも解釈する。
【六年】十七歳で結婚して十九歳で出家しているにもかかわらず、六年目に子供ができたのは奇妙な話であるけれども、原文のままです。
【狐の毛皮】原文は「狐裘衣」。この伝承だと冬のインドでは毛皮で寒さをしのいだようです。
【十二部】経(スートラ)全体を十二に分類する方法。転じて経の全体を示す言葉です。
【著】原文「所著経(著す所の経)」。経はブッダが語ったものであり、著したものではないですが、原文に通り和訳しました。
【八億四千万巻】さすがにこんなにないです。煩惱の多さを「八万四千」と表現するので、それに掛けた表現です。
【六斎(ろくさい)】白月(新月から満月まで)の八日・十四日・十五日、黒月(満月から新月まで)の二十三日、二十九日、三十日の六日に清浄な生活を送ること。在家者も出家者に近い生活を過ごします。
【斎(さい、とき)】在家信者が僧侶を食事に招き、その際に説法を聴く儀式。

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