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アラハバキ神と邪馬台国(Ⅱ)


陸奥国の神々 (改3)

陸奥国・出羽国

 さて、次は二部、陸奥国の遠野方面へ巡ってみましょう。ここも残念ながら「久々知族」の瀬織津姫こと櫛稲田姫に席巻されていました。伝承をみてみると、どうも腑に落ちないことが多いのです。一番びっくりしたのは、伊豆神社(遠野)に瀬織津姫が祀られていることです。伊豆神社と言えば遠く九州の対馬にある海神神社の裏山の伊豆山が発祥の地で伊豆那彦(山幸)・伊豆那姫(豊玉姫)で余りにも有名だったからです。本当に謎めいています。では、伝承ではどうなっているのでしょうか? (24/7/27)

上図は、陸奥・出羽国である。時代によって変遷がある。

遠野の神社

早池峰神社 (遠野 奥州)

早池峰神社(遠野)

瀬織津姫命
大同元年(806)、来内村の猟師藤蔵が山中で十一面観音の尊像に遭遇。
感銘して、後に早池峰山山頂に奥宮を建立した。
その後、藤蔵は普賢坊と名を変え、現在地には新山宮を建立した。

社伝1

昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来り、今の来内村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫 の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃に之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早地峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。

社伝2

 境内には「稲荷社」「駒形社」「山の神」「コンセイサマ」がある。大出早池峰神社(遠野)の御神紋は剣九曜だが屋根は菱形です。ここで面白いことに「祓戸神」が瀬織津姫命として登場することです。武蔵国では稲田姫命です。同じ神名では、”不都合があった”のでしょうか?

 ところで、「祓戸四神の成立」は不明だが四神の中で一番若い鴨玉依姫(速佐須良姫)はタケルより高々二〇歳程度しか離れていない。タケルが年下だが「同時代」とも言える。もっとも「祓戸神」は記紀には登場しない。大和王権の統一に向けた「武力侵攻」は、景行・タケルからであることを考えれば、「祓戸神」としての瀬織津姫はこれを契機として出されてきたのかも知れない。それより古ければ「祓戸三神」だったろう。何れにしても「大和軍侵攻の守護神」であったことは間違いはない。

早池峯二十末社のリストです。
神遣神社 妙泉寺 新山神社 金剛院 伊豆神社 伊豆権現とも呼ばれ、木花咲耶姫 八幡神社 天満宮 稲荷神社 秋葉神社 諏訪神社 弁財天社 大日神社 十二天社 庚申社 地蔵尊 役行者像 七福神 不動尊 馬頭観音 薬師如来

遠野三山 とよばれる早池峰、石上、六角牛の山霊を祀る。(玄松子より)

伊豆神社(遠野)

伊豆神社(遠野)

   瀬織津姫命 俗名 おない  遠野三山の姫神の母神
『綾織村郷土誌』には、 前九年の役で敗れた安倍宗任の妻「おない」が 「おいし」「おろく」「おはつ」の三人の娘を連れて当地へ隠れ 人民の難産難儀の治療にあたり、人 命を助けた功により祀られたとの 伝承が記載されている。 

社伝

 母神を祀っているはずだが、御神体は獅子頭だそうだ。後述の磐神社の伝承でアラハバキが出てくるが奥州・安倍(又は阿閉)は九州王朝の直系の後裔である。前九年の役で破れた後妻子が遠野に来たのは縁の民が隠したのだろうか。伊豆神社が縁の神社と知っての事のように思われる。

伊豆大神

安倍氏の後日談
 『「太宰府管内誌」には佐田村(甘木市)には安倍貞任の子孫と称する家がある。貞任から十三代の木像十三があり、第十三代を孫太郎専当と言い今の庄屋はその子孫である。安倍を名乗る家十四、安倍の一族の産神松島明神(天御中主とも)を祀る。貞任の子立仙の墓もある。(中略)昔は五十軒ほどの集落で殆どが安倍姓だったらしく、奥州安倍の子孫であることに誇りを持っていらっしゃるようでした。、、、宗任が英彦山を頼ってこの地に住み先祖の霊を祀ったのが都高院の始めとあります。』(豊後安倍氏より)
  安倍氏の故地に戻ってこられていたようです。

神遣神社(遠野) 早池峰末社

 遠野物語では、伊豆神社で、三女神の山が決定する一夜を迎えるが、他の伝説では、当社となっている。
母親は(伊豆神社に祀る)、長女には「六角牛山」を、次女には「石上山」末娘は「早池峰山」を与えました。三女神の像が祀られている。

 伊豆神社の母神は、瀬織津姫とされるが娘なら鴨玉依姫(豊玉姫とは異父姉妹)くらいしか思い浮かばない。伊豆神社の「本来の神」ならば、尾張氏系図に出てくる天道日女(豊玉姫)と饒速日命(山幸)の間に生まれた娘として、天羽衣命や栲幡姫命がいるので表に出てこない女神がおられる可能性はあるとも思われる。

当神社は、早池峯二十末社の首座。祭神として、早池峰、六角牛、石上の三山の神霊を祀る。

神遣権現

六神石ろっこうし神社(遠野)

表筒男命 中筒男命 底筒男命 息長帶姫命  大己貴命(大国主)  少彦名命   合祀 [誉田別命] 因みに安曇磯良(表筒男) 崇神天皇(中筒男) 開化天皇(高良玉垂命・底筒男) が祀られているが、崇神と息長帶姫を除外して五神は九州王朝の神々である。

石上神社(遠野)

 經津主命(山幸)   配祀  伊邪那美命 稻蒼魂命

 つまり、この二社と「伊豆」を考えれば遠野三山は、正しく邪馬台国・九州王朝の神々である。筑紫ー出雲ー陸奥への移動が見て取れるのである。ふつう、神社はいわゆる地域に関係のない「独立神」はいないとされる。もしあれば歴史的背景がある。伊豆神社だけ書き換えても、全て書き換えねば矛盾が残る。他の”二山は残されている”ことからも瀬織津姫は異質と言える。
 そもそも、神社名と祭神が合わない。

走湯神社/高水寺(紫波)

 現祭神は、天忍穂耳命(海幸、孝昭天皇) 境内;諏訪神社 天満宮 八坂神社 菊池稲荷社 八幡宮 道祖神
 走湯神社は、源頼朝によって高水寺の鎮守として、文治5年(1189年)に伊豆山(熱海市)の走湯権現を勧請。走湯権現は伊豆権現ともいい、遠野・早池峯神社の親社・元社として来内村の伊豆権現社(現在の伊豆神社)がある。

 遠野・早池峯神社の親社(伊豆)の元社が、走湯神社と云っている。ところが、面白いのは、他に宮崎と岩手で同じ走湯神社(=伊豆山神社)を勧請しているのに祭神が異なるのである。紫波・走湯神社は、大和王権側の熊本阿蘇家出身の海幸、方や熱海・來宮神社は、九州王朝の山幸(彦火火出見)都城・走湯神社は、山幸の義兄弟大国主である。

  ●來宮神社(熱海(伝)和銅3年(710年))
    日本武尊 五十猛命(山幸・彦火火出見)大己貴命
   『走湯山縁起では伊豆山神社の地主神』としている。(重要)
  ●走湯神社(宮崎 都城)
    大名持命(大国主) 天照皇大神 少彦名命 豊受姫神
    伊豆国走湯権現(現静岡県熱海市伊豆山神社)の分霊を勧請し創建し                         た(宮崎・都城市);創建・建武三年(1336)

つまり、肝心の勧請元の伊豆山神社は、祓戸神(支配神)によって上書きされ、辛うじて瓊瓊杵尊、菊理媛命、光の石として山幸が残されたと考えざるを得ない。だが、皮肉なことに、勧請先の神社が元々の神々を伝えているのである。

  ●伊豆山神社(熱海)元宮
    火牟須比命(金山) 天之忍穂耳命(海幸) 拷幡千千姫(海幸                            妃)瓊瓊杵尊(山幸の実弟)

         境内社 ​ 結明神社 - 祭神は結明神(日精・月精)。本社 - 里宮 がある。
         ​白山社  祭神は菊理媛命(大国主祖母)
        ​ 雷電社 -  祭神は伊豆大神荒魂・雷電童子(瓊瓊杵尊)
        ​ 足立権現 祭神は役小角 ​ 祖霊社 ​
         光石  大磯高麗山(高来神社;神皇産霊(大幡主)、天津彦穂邇々                           伎)より道祖神(猿田彦大神=山幸、天宇受売命;夫婦)と共            にやってきたという光の石。

  元宮も「祓戸神」が主祭神となっています。辛うじてニニギ、御中              主、山幸が残されている。

伊豆神社(熱海)

 つまり、遠野三山と早池峰神社の元宮の配神、勧請先と伝承から遠野・伊豆神社の祭神は、元は大国主と山幸両神の妃である伊豆那姫(豊玉姫=伊豆能売神)として良いと思われる。六神石神社には大国主、石上神社には山幸そして伊豆神社には両神の妃・豊玉姫と夫婦で祀られていたと思ってよい。彼女こそ「邪馬台国のプリンセス」(畿内では河内大神)である。

瀬織津姫は「熊野」から持ち込まれた!

 奈良時代は養老二年、陸奥按察使・鎮守府将軍を務めた、大野東人が蝦夷征伐おこなった時に持ち込まれている。タケルよりづっと後のことである。業除神社ー瀬織津姫神社(舞根)ー熊野本宮(室根)の伝承を繋ぐとその経緯が明らかとなる。

室根神社(一関 )

室根神社

室根神社本宮:伊弉册命
 室根神社・新宮:速玉男命(大幡主)、事解男命(金山彦・熊野権現)
 本宮は大野東人が「蝦夷降伏の祈願所として紀州から熊野大社の御神霊を迎えまつった」ものとあるが、社伝では「養老二年(718)元正天皇の勅願により従三位穂積重義・正四位下湯浅権太夫玄晴が紀伊熊野山より海路神霊を陸奥へ運び、九月九日に鬼首山(おにこうべ)(現室根山)に勧請したのが本宮のはじまりという。」

 菊池展明氏(遠野・風琳堂)によれば、『瀬織津姫神社について、①唐桑町舞根にある瀬織津姫神社は、熊野神を紀州から迎え、仮宮を設け神託を仰いだところである。②神託では「昔、日本武尊の皇業を始められた地である鬼首山(おにかべ)に鎮りたい」とあり、この神を土地の人々は室根さんと呼び、古記にはこの土地を熊野社地と呼ぶとある。』

 室根神社本宮の社伝によれば『熊野神は紀州から本吉郡唐桑村細浦(現在の気仙沼市唐桑町鮪立)に着き、仮宮を建て熊野本宮神を安置した。それがいまの舞根神社(瀬織津姫神社)である。しかし、地元・唐桑側の鎮座伝承では、舞根の瀬織津姫神社は二番目の仮宮とされていたという。』

 さらに、業除(ごうのけ)神社の伝承では、『加藤宣夫『唐桑史談』(私家版)によれば、業除神社の祭神は「紀州熊野神社御分霊」とされ、「古老の語り伝えるところ」として、ここ(業除神社)から「舞根の森の仮宮に移り、次いで神慮に依り室根山頂きに鎮座し給うた」とあります。ここで言われている「舞根の森の仮宮」が瀬織津姫神社(舞根神社)です。』と云う。

 つまり、業除神社ー瀬織津姫神社(舞根)ー熊野本宮(室根)と言う。熊野勧請の過程で”瀬織津姫”が持ち込まれたと思われる。大和タケル(素戔嗚四世)より後のことである。残念ながら遠野の早池峰・伊豆の神々は「征服の神」としての瀬織津姫であるに違いなかろう。
 彼女こそ素戔嗚の妃であり、熊野権現(金山彦;勝軍地蔵)の娘であり紛うことなき「熊野神」(系図参照)なのである。

    文献的には、「神道体系 神社編;熊野三山ー熊野那智神宮創建」に「一ノ瀧(那智大滝)下流」に「瀬織津比口神社」という社殿があった」
 
神護景雲2年(768)撰録と伝えられている「大和姫命世紀」には、荒祭宮(伊勢)に瀬織津姫が鎮座と記されている。などが存在する。
 ただ、研究者を悩ませるのは彼女は、素戔嗚の「蘇民将来」事件をきっかけに離婚し、豊玉彦(八咫烏)と結婚し伊賀古夜日売と名を変え鴨玉依姫(=神直日)を生む。など複雑になっている。加えて伊勢神宮が実名を伏せているのでなお混乱が生じている。

 面白いのは、金山彦・瀬織津姫 親子は「祓戸四神」の筆頭である。この四神は大和王権の神々であるのに対し「客人四神」は、邪馬台国の象徴である。大和王権とは関係が無い。おそらく祓戸四神は、客人四神に対抗する神々であったのかも知れない。

その他の神社(Ⅰ)

砥森ともり神社(遠野)
 祭神 大和タケル 来ていたことが伝承されている!

厳龍神社(遠野)
 祭神:日本武尊命、少毘古那神、厳嶋姫命、宇賀之魂命。

篠神社 (遠野)
 
祭神 天照大神 八幡 菅原  現在は巖龍がんりゅう神社に合祀されています。

倭文神社 (遠野)
 祭神 瀬織津姫命、下照姫命ー大国主と市寸嶋姫の娘
 ※倭文神 建葉槌命で父は天日鷲(豊玉姫の弟)書換えたものか?

日出神社(遠野)
 大己貴神、少彦名命 元は気仙郡上有住村かみありすむら秋丸にあった。

鵜鳥神社(普代村)
 鵜葺草葺不合命(山幸・豊玉姫の子)
 玉依昆売命 海神 岩手県下閉伊郡普代村 藩政時代には卯子酉神社と呼ばれていた。分霊神社も遠野市の卯子酉様等11社以上存在する。 遠野高校の西にある卯子酉様うねどりさまの元宮である。

北上・多岐神社(新山宮)
 村社 多岐神社  多岐大明神  稲倉魂命 (母は罔象女ー素戔嗚妃で大国主の姉)坂上田村麻呂(麿)時代には「多岐大明神」であったものが、関白・藤原頼通の時代に「稲倉大明神と改号せり」とあります(由来)
多岐神社の背後に新山宮があり瀬織津姫(クシナダ姫ー素戔嗚妃)を祭っている。

ここでは、義理の母娘ということになる。新山宮には瀬織津姫神像がある。

 〇多岐神社(岐阜県養老)では倉稲魂命と素戔嗚で、実の親子である。  〇多岐神社(新潟)多岐津姫命(端津姫命 たぎつ=鴨玉依姫ークシナダ                        姫の子)滝では無いと社伝(由緒書)
    〇多岐神社(岩手県盛岡市)瀬織津姫
    〇多岐神社(盛岡市玉山区渋民)瀬織津比咩神
    〇多気神社(松江)武甕槌命・経津主神


岩手山神社(盛岡)
大国主 天照大神 宮沢賢治が岩手山に登山する際、社務所で休憩をとった。

雫石神社(岩手郡雫石町)
  月読命
(大国主の父)・豊秋津彦命・素戔嗚尊

御崎神社(おさき)気仙沼
 大海津見大神(ウガヤ)

丹内山神社(花巻)

丹内山神社(花巻)

多邇知比古神(たにちひこ)不明
天之御中主神         
高御産日神         
神御産日神         
宇麻阿志訶備比古遅神
      
  ※客人神=アラハバキ神

 ここには、境内に、謎のアラハバキ神の巨岩が鎮座している。ちゃんと出雲の「客人神」がアラハバキ神として祀られている。『かつてはこの神を祀っていた神社のほとんどが、ご祭神を変えてしまいました。』と云う。造化三神(サムハラ)を知らなければ、やはり謎でしか無いのでしょう。灯台下暗しである。

 宇佐神宮の元宮・大元神社の祭神も巨石だが、社伝では巨石が「三つに割れて三神」になっているが、ここでは手前に善神王・武内宿禰が配神されており、彼が奉斎する形を取っている。四国の大元神社は、奉斎が猿田彦(彦火々出見)であり、何れも邪馬台国・九州王朝の人物である。多邇知比古神は不明だが、同様に造化三神を奉斎する同神の後裔だと思われる。宮沢賢治にも登場する「谷権現」こと多邇知比古神は地元住民が祀っていた土着の神で,谷内地方を開拓した祖神と伝わる。真鍋によると「谷神こくしん」は石上いそのかみ(山幸)とするので、別名か後裔かも知れない。

アラハバキ神の巨岩(丹内山神社;花巻)

 さて、アラハバキ神が、造化三神とすれば今一度見直す神社が出てくる。アラハバキ神以前の祭司形態を持つ神社群である。一つは石體神社 鹿児島神宮の元宮;境外摂社で、彦穗穗出見尊(山幸)、豊玉比賣 彦穂穂出見尊は筑紫国開拓の祖神で、ご神体は50cm大の丸い石と云う、画像は無いらしい。

磐神社・女石神社(奥州衣川)

 もう一カ所、巨石をアラハバキ神とする神社がある。丹内山神社(花巻)の南、衣川である。また「延喜式内社としても記載されており、古来より信仰されてきた場所であることは間違いない」と云う。

磐神社のアラハバキ

 祭神は日本武尊と稲葉姫命、伝承では伊邪那岐命。
 通称は「おいしさま」と呼ばれている。 社殿の裏にある高さ4.2m、縦10.2m、横8.8mの自然石がご神体で、安倍氏はこの大石を 荒覇吐(アラハバキ)神として尊崇していたという。

『陸奥話記(むつわき)』の冒頭に、陸奥国奥六郡(衣川以北で盛岡市以南に相当する)の首領に安倍頼良(よりよし・後に頼時と改名)という者がおり、祖父忠頼の頃から「蝦夷の長」として権勢を振るい、武力をもって諸村落を服従させ、税も納めず、国司をも恐れぬほどであった。

 奥州安倍一族の城郭だったと伝えられる跡が南にある。ルーツは分からないとされているが  崇神の四道将軍・大彦が東北に下ったといわれる。彼は九州王朝・開化天皇の腹違いの兄で 後裔はあの八女の磐井一族である。宇佐で大元神を奉斎していた武内宿禰は実弟でもある。開化は阿部姓を名乗っている。おそらくこの時一部が定住・土着し、九州王朝の守り神でもある阿部・磐井の祖先神「造化三神」 (アラハバキ)を尊崇していたと思われる。

粟島(あわしま)神社(四国)

 四国の大元神社について、述べたが巨石信仰と大元について驚きの神社を紹介しておきたい。愛媛県の西南部、大洲(おおず)市に鎮座する粟島(あわしま)神社だ。祭神は少彦名(事代主)で豊玉姫の息子で大国主に連れ子で再婚したときに少彦名と改名している。四国は「造化三神」は山幸(猿田彦)が奉斎する。と書いたが、粟島神社は、元は「大元神社」であったという。息子が「大元神」を奉斎していたことになる。
 磐座の上に建つ神社は、異様で迫力がある。自然石でなく運んできたものと云われている。

粟島(あわしま)神社(四国)旧大元神社の巨石神社
大元神(造化三神)を祀ったものと思われる。

巨石信仰とアラハバキ神

 これらの神々が九州を北上すると、宇佐市安心院町に 白山神社(遺跡)があり、伊邪那岐・伊邪那美命、「菊理姫命」(御中主)を祀るが「非常に古い信仰形態の磐座祭祀というものが分かりやすい形で残されている。 白山神社の神殿の創建は、明治41年。それまでは、8合目にある巨石群(磐座)で祭祀を行っていたと考えられている」と云う。(ふるさと佐田より)
 まさに、その姿はストーンヘンジ様で迫力がある。”アラハバキ神の巨石信仰”の原型ともいって良いほどの遺跡である。

 そして、既に述べた宇佐(元宮)・大元神社三つに割れた巨石のご神体である。入山が禁止されているので、伝わる絵図でしか確認出来ないが、造化三神に相応しい。こうして「巨石信仰」が遙々伝えられて行ったのだと思われる。

安心院町の白山神社遺跡
三つに割れた巨石のご神体絵図(宇佐・大元神社)
磐の前に善神王(武内)とその右に北辰(御中主)がある。

『ハバキ』について

 ここで、「ハバキ」に触れない訳にはいくまい。 真鍋大覚の著作に「灘の国の星 拾遺」がある。何か難しい言葉がでてくると古語辞典のように繰り返し読むので思い当たる箇所がうかぶ。「彗星(客星とも)”帚星;ははきほし”又は伯耆星とも云った。又は、志登星とも云う。一九歳を重ねるを云う。その大いなる時、北斗を覆う故とも説かれる。北斗を四三星と云う」また「は遊星即ち水金と火木土の太陽惑星を言ったとも、又彗星であったとも語られる」とある。

 御中主は北斗神(妙見)でもある。彼女の息子は、月読(つきをよむ)である。「物部は元来、星辰を祭る家系」である。「石は星」のことであると云う。巨石信仰とは農業とも結びついた星の信仰であったろう。
  因みに、彼ら一族は「石の名」を持つ、月読(石城神)ー大国主(石動彦)姉・罔象女命(イワの姫)ー石凝姥命(豊受姫・鏡作神)ー物部、一族と婚姻関係にある山幸は、石上大神、石切大神である。「石上も本来は衆星の頂点、即ち北極、玄天であった」(真鍋)とも云う。

 福岡県嘉麻市の北斗宮(御中主)は東向きだが北に聖方位(約20度、)傾いている。聖方位とは西暦200年頃の真北のこと。玄海に浮かぶ、志賀海神社 沖津宮(御中主)は北向きで聖方位を持っている。ここは周囲は海で遮るものは何もない小島である。干潮の特は歩いて渡れる。星の祭司・観測場所に相応しい場所にある。ここからは、想像だが「客人」とは「客星」つまり”帚星”からハバキと転化しハバキ神となったのではあるまいか。
 そうすると御中主⊆造化三神と繋がることともなる。御中主の孫(養子)、少名彦名は、天文・暦法の達人とも云う。

白山信仰と天御中主

 御中主は北斗神(北辰)つまり天空の写し絵としての北斗は巨石信仰でもある。全国に白山宮、白山神社が存在する。祭司形態は様々だが、ストーンサークル的なもの、巨石、洞窟的なもの、磐座形態のものなどがあるが、何れも「石」(星)が共通している。いくつか例をあげておきます。花巻のアラハバキが特別なものでないことが分かります。

妙見神社(岐阜県下呂市)

金山巨石群(岩屋岩陰遺跡)がある。妙見神社の参道。鳥居を抜けると岩屋岩蔭遺跡がある。

妙見神社;天之常立神(御中主)
金山巨石群(岩屋岩陰遺跡)

白山神社(大分県坂ノ市)

巨石自体がご神体、中に入ると小さな石祠が奥にある。

白山神社(大分)

白山神社(新潟)

菊理媛大神(白山大神=白山比咩大神)
伊邪那岐命 伊邪那美命
配祀神 天照皇大神 八幡大神 延喜(901年~)とも寛治(1087年~)とも伝えられる 菊理媛大神は加賀国の白山比咩神社(白山権現)を勧請した。

白山神社(新潟)

白山神社(二丈福井;糸島)

 創建は不明。白山神社は、背振山系の北側にあり「二丈岳」を神体山とした山岳信仰が今も残る。  菊理姫命が伊弉冊琴と伊弉諾尊という夫婦の神様の言い争いを仲裁した。(結局分かれる。)

造化三神(中央は菊理姫命)神社蔵
上部に三つの磐が見える
二丈岳巨石

浮嶽神社(白山権現)
 糸島市二丈吉井

 壱岐に船で渡る際、最後まで見えるのが浮嶽  中腹には浮嶽神社の中宮    奈良時代に聖武天皇の勅願により、インドからの渡来僧である清賀上人によって怡土七ヶ寺が創建されました。浮嶽神社はその1つ「久安寺」跡だと言われています。

 浮嶽神社の下宮・中宮・上宮がある。 下宮は竹戸にある白山神社 中宮は浮嶽神社(白山権現;久安寺跡) 伊邪那岐尊、伊邪那美尊、菊理姫尊 白龍稲荷神社 大黒と恵比寿石像 上宮は浮嶽宮 伊邪那岐尊


白山宮(福岡県 秋月)

 古処山山頂の三つの大岩がご神体(宮地岳の大岩もある)

白山宮(秋月)

白山比咩神社(加賀一の宮)

菊理媛尊とともに伊弉諾尊・伊弉冉尊

白山山頂の奥宮は巨石がある。北辰の痕跡を探すと表参道から本殿が丁度"聖方位の北向きだった。 建物は変わっても参道は、昔のものを使う例が多いので多分「北向き」があったと思われる。

白山奥宮

元伊勢籠神社(京都府宮津市)

火明命(山幸)豊受姫 丹後一の宮 ​ 磐を、祭る家系らしく天照大神、塩土も磐座で祀られている。

御中主大神

八代妙見宮(熊本八代)

 御中主・国常立尊(大幡主) 造化三神の二神 妙見祭が有名 亀蛇 西王母等が登場する。 御中主はこの”亀蛇きだ”に乗ってやってきた(伝承) ※因み御中主は、大幡主の叔母にあたる。父の姉である。

亀蛇(愛称ガメ)

上宮には、磐座がある。

八代妙見・上宮

弥山巨石群(宮島)

 あの、宮島の元宮が「大元神社」であることは意外と知られていない。
 大元と言えば宇佐の「三つに割れた巨石」ここ宮島の弥山山頂にソックリ
 さんがある。

弥山巨石群(宮島)
おそらく宇佐と同じ「造化三神」を祀ったと思われる。
それとも「客人四神」でしょうか!

湯神社(新潟)

 新潟・弥彦神社の摂社 祭神は大己貴命、少彦名命
 ここは多分先に出てきた走湯神社であろう。ここにも巨石がある。
 しかし、しれーっと書いてきましたが、弥彦神社社伝に「天香山命は高倉下命とも申し上げ、天照大御神の御曾孫で、父神は饒速日命(山幸、弥五郎どん)、母神は天道日媛命(豊玉姫)で、天孫降臨に供奉して天降られました。」と伝えている。卑弥呼の子が伝わっている。

湯神社の巨石

鹽竈神社 陸奥一之宮

鹽竈神社

大幡主(塩土翁) 志波彦神社(塩竈市)の志波彦は大幡主 明治7年12月24日に鹽竈神社の別宮本殿に遷祀
 主祭神である鹽土老翁神 左宮に武甕槌神・右宮に経津主神(*大幡主の子)  境内 神明 八幡 住吉 稲荷

 鹽竈神社は祭祀料として正税壱万束を受けていた他に他に祭祀料を寄せられていたのは、他に伊豆国三島社二千束、出羽国月山大物忌社二千束、淡路国大和大国魂社八百束の三社あったと云う。又、『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないという。結束の強さが忍ばれる。

※志波姫神社 木花開耶姫命(豊玉彦妃)
大和タケルが東征したとされる「竹水門」は、宮城県七ヶ浜町湊浜=「多賀の水門」説があるが 塩竃神社の南にあたる。竹水門伝説が伝わる。

その他の神社を列挙する。

その他の神社(Ⅱ)

八槻都々古別神社(陸奥)
 陸奥の国の一宮は福島県
 味耜高彦根命(ウガヤ)と日本武尊

神明社(奥州市)
 天照皇大神 木花開耶姫神

日高神社(奥州市水沢)
 天之御中主神

西根神社・高畑天満宮(福島 陸奥)

 摂社 一言宮 御祭神は、大国主命とその御子である、言代主命(一言主大神)

三吉神社 霊峰太平山(福島)
 大己貴大神 少彦名大神 三吉霊神(秋田で生まれた守護神)

田村神社(伊豆箱根三嶋三社)陸奥)
福島県郡山  【主祭神】 1.天照大御神 2.天忍穗耳尊 ※伊豆山神社の祭神 3.瓊瓊杵尊  ※箱根神社・伊豆山神社の祭神 4.大山祇神  ※三嶋大社の祭神 5.神倭磐余彦尊 【配神】 6.神八耳尊 ※現宮司の遠祖 7.饒速日命(山幸)

安積国造神社(郡山 陸奥)
 郡山の総鎮守   天湯津彦命の10世孫であられる比止禰命
和久産巣日神 『古事記』では食物神の豊受比売神を生んだ ​ 天湯津彦命 ​ 比止禰命 ​ 誉田別命 ​ 倉稲魂命

駒形神社 陸中一宮

岩手県奥州市水沢

 天照大御神  天常立尊(御中主) 国狭槌尊(金山彦) 吾勝尊(オシホミミ) 置瀬尊(天孫ニニギノミコトさまとも言います。) 彦火火出見尊(天照さまの曽孫様です。山幸彦とも言います。)

「箱根山縁起の箱根神社が駒形神社を奉祀するのは、朝鮮から高麗大神を勧請した と記載しているのと同様である。」(由緒より)  

※駒形神社(箱根)
 天御中主大神 素戔鳴尊 大山衹神 の三柱を総して「駒形大神」

安福河伯神社(陸奥)

宮城県亘理郡亘理町

阿武隈川の神である速秋津比売神(豊秋津姫ーニニギの姉;高木の長女)を主祭神に、 経津主神、猿田彦命、大年神を祀る。 宮原水神社の水波能賣神、森房早川神社の天之御中主、高皇産霊神、神皇産霊神を合祀。

出羽の神々

伊豆山神社(秋田)

秋田・伊豆山神社

 延暦年間(西暦782〜806年)、坂上田村麻呂による「東夷征討」の折、伊豆山に立寄り四神相応奇特の霊場と夷賊平定を祈願。その後夷賊平定の報賽として社殿を造営し積羽八重言代主神を祀る。※泣澤女神説がある。 不老山神社から伊豆山神社に改称されたのは天正年間(西暦1573~1591年)のことです。十三座の神様をお祀りしていますが、大正元年に四つの神社が合祀されたため多くなっています。主祭神は、積羽八重 言代主神です。

社伝

 おそらく火産霊は合祀と思われる。※イザナミが亡くなった際に、悲嘆にくれるイザナギが流した涙から成った神です。(社伝)とあるが泣沢女の祖母である。

祭神 積羽八重言代主神 泣澤女神(豊受姫) 高皇産霊神 天照皇大神 豊受媛神 伊邪那伎神・伊邪那美神 天之水分神(豊受姫) 大物主神 火産霊神
境内社 大国社 白山社(菊理媛) 金刀比羅社(大物主)

社伝2

 ここも、遠野の伊豆山と同じように神社名と祭神が合わない神社である。しかし、祓戸神の影響は少なく遠慮しがちに見え隠れしている。事代主は山幸(彦火々出見)の実子であるし、泣沢女は山幸妃である。周辺の神社で関係神がしっかりと祀られている。

伊豆山神社と周辺の神社(拡大で分かりやすい)
右から神宮寺・伊豆山・姫山
美しい三山である

嶽六所神社 大田命(事代主) 興玉命(猿田彦) 句々土命(金山)大山祇命 磐戸命

興玉命;『神名秘書』によれば、猿田彦大神またはその子孫である大田命の別名、倭姫命世記に、以下のような文が記されているといいます。
興玉神 無宝殿。衢神。猿田彦大神是也。一書日。

長沢神社: 長沢神社は大仙市にある伊豆山と姫神山(大平山)の間にある谷あいに鎮座しています。(地図参照)

長澤神社 御祭神 天瀬織津姫尊 〔配祀神〕多記利姫神(=豊玉姫) 市杵島姫神外五柱
  境内社(摂社・末社)立合神社 両大神宮 八幡宮 招魂社
滋賀県野洲市比江765

長澤神社 猿田彦(山幸) 岡山県井原市
明治43年11月(1910年)地区内の垂水神社(祭神:豊玉姫命)艮神社(祭神:吉備津彦命) 天神社(祭神:菅原道真)の3社が本社に合祀された。

それぞれの社伝

野洲市の長沢神社では、祓戸神に置き換わっているが、豊玉姫は残されている。井原市は、猿田彦と豊玉姫がちゃんと残されている。

大平山三吉神社(姫神山)
 大国主 少彦名 三吉霊神(力の神、勝負の神;太平の城主藤原鶴寿丸三吉)

薬師神社 大同二年(807)に創建
 明治四十四年、ときの明治政府の政策のもと太平山神社、神明社、瀧神     社、八幡神社を合祀
大名持神、少彦名神、天照皇大神、豊受姫大神
 大山祇大神、誉田別大神、高龗大神、三吉大神

姫神山(大国主)ー長沢(豊玉姫;伊豆那姫)ー伊豆山(山幸;伊豆那彦)→梵天祭り

 つまり、秋田の伊豆山神社も”伊豆那姫・伊豆那彦として良い”と思われる。上記の二神(大国主、山幸)は豊玉姫を妃とする夫婦神である。


伊豆山に登る梵天

梵天祭は江戸時代頃(開始年代不詳)に始まった秋田県固有の特殊神事で、梵天と呼ばれる依代を神社に奉納いたします。(社)

出羽三山神社-羽黒山 月山 湯殿山

月山

月山神社  月読命
出羽神社
  出羽国の国魂である伊氏波神(イデハ;ウガヤ)と稲倉魂命
湯殿山神社 大山祗命、大己貴命、少彦名命
 摂社  磐裂が大市姫 根裂が金山彦 五十猛神社 少彦名 豊玉姫 下居社 伊弉諾 伊弉冉 天照大神、天八神、久久能智、彦火々出見、罔象女命七神

伊氏波神(イデハ)は、羽黒彦(うがひこ)  [*誤りを修正]
伯禽島姫 ー 竜王の娘である玉依姫命竜宮にあっては伯禽島姫;しなとりしなひめ)で、江戸時代は羽黒神とされた。(社伝)

*一部珠洲市 奥能登の羽黒神社の宮司さんより

『羽黒山伝』には、「安曇磯良。二人の姫宮、此界え出府し玉ひ、厥の御迹を慕ひ、此界え出府し玉ふ。月山権現是也」「月山は鸕鷀草葺不合尊。羽黒山は伯禽洲姫宮。下居は玉依姫宮」とある。
ウガヤと鴨玉依姫は夫婦、磯良はその子である。

「羽黒山伝」

『江戸時代の文献によります、羽黒山の祭神考によりますと、羽黒山の神は、 伯禽州姫命(しなとりしまひめひめのみこと=聖観音) 羽黒彦命(うがひこのみこと=軍荼利明王) 玉依姫命(たまよりひめのみこと=妙見大菩薩) を以て、羽黒三所権現とした。 (※つまり夫婦神)

奥能登の羽黒神社の宮司伝

 この「羽黒」(うが)の読みは分からなかった。福岡県西部にある羽黒神社の謎がこれで、やっと解けたことになります。”ウガ神社”つまり卑弥呼の孫=弥彦神社の天香山(ウガヤ)ということです。羽黒神社と弥彦神社の「大」の神紋の謎も同時に解決することになります。もう一社出雲にも「大」がある。

大物忌神社(出羽国一之宮)

  大物忌神=倉稲魂命
  月読命 - 吹浦口之宮

金峯神社(山形県鶴岡市)

 大国主命 事代主命 少彦名命 安閑天皇 671年 天智天皇十 役行者、当山を開山し、山頂に金剛蔵王権現(釈迦如来) を祀り信仰した(社伝)旧県社

大同年間(806年 - 810年)、金峯山(金山、鎮山とも)の山頂にはじめて社殿が創建され、承暦年間  (990年 - 995年)、大和国宇多郡の丹波守盛宗が出羽国に移る際に吉野の金峯山の神を勧請したと伝える。

社伝

 ここに、おかしな事が書いてあります。吉野の金峯山といえば、熊野権現こと金山彦ですが、この社伝が本当だとすれば元は大国主と言うことになる。金山彦は祓戸神の筆頭なので”もしかすると”そうなのかも知れない。

金峯神社(山形)

新山神社 由利本荘市石

稲倉魂神 大名持神 少名彦神 大物主神 火産霊神 猿田彦神 天照大神 大山祇神

岩木山神社(弘前)

 旧社格は国幣小社で、津軽国一宮とされる。宝亀11年(780)に社殿を山頂に創建した。 延暦19年(800年;平安)に、征夷大将軍 坂上田村麿がこれを再建し、別に山麓である十腰内の里に 下居宮を建立して、山頂を奥宮と称した。
 顕国魂神(うつしくにたま)-大国主神 多都比姫神(湍津姫) 宇賀能売神 大山祇神 坂上刈田麿命 以上をまとめて岩木山大神と称する。
 末社 白雲神社(白雲大龍神=湍津姫) 稲荷神社(豊受姫)

社伝

 津軽まで来ると、タケルが来ていないと思われるので気が楽になる。
 流石にあのこれ見よがしな「祓戸神」は居ない。戦乱を逃れて来た人々はいたかもしれないが。山幸・大国主一族の影響はあったと思われる。ここは、大学時代の友人が高校教師になっている。懐かしい!

岩木山神社

昔、石匠(上)即ち蹈鞴の達人、錬金の名人を石伎(いわき)といった。津軽岩木山、陸奥岩手などの山名は麓の無尽蔵の砂鉄、即ち釜石の宝庫に由来した。磐城なる国名はその故郷であった。(真鍋)

邪馬台国の後裔者達

あとがき

 アラハバキ、造化三神、客人四神、祓戸四神、瀬織津姫がどのような神々であったのか分かるようになったと思います。復習している間、北九州の和布刈神社を思い出しました。和布刈神社 別名「隼人社」 とも呼ばれ、主祭神撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(瀬織津姫)、日子穂穂手見命・鵜葺草葺不合命・豊玉比賣命・安曇磯良が祀られています。この神社もまた、神功皇后が三韓征伐からの凱旋を祝って建てられ、祓戸神が首座となり、以下九州王朝の神々が列席しているのです。初期九州王朝は神功によって滅ぼされますが、大和王権の守護神・祓戸神は、こうして受け継がれているのです。しかも現在まで!

参考文献 ​
「遙かなる筑紫に神々 その後」 黒岩 松崎歴文/Kobo 2024 ​
「百嶋由一郎講演集」 神社研究会 2015 ​
「高良玉垂宮神秘書同紙背」(*)荒木尚 高良大社 1972 ​
「室根山祭祀と円仁」(月の抒情、瀧の激情)菊池展明 2011 ​
「大宮氷川神社~門客人神社・アラハバキ」三諸 2023
  石川県珠洲市 奥能登に鎮座する羽黒神社の宮司さんのブログ
   画像は主にGoogleを引用した。 

Tikusi yori toono no wakaki koueitatini Aiwo komete  君たちは、私たちと兄弟姉妹である!

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