[短編小説]兵どもが夢、ここに眠る。
戊辰戦争。
武士の時代の幕を閉じる、一世一代の大戰。そこで散った同胞たちの弔いに、弐拾年ぶりに訪れた蝦夷地はその嫌悪の影を消し去っており、ただ穏やかな時が流れていた。
刀と名を捨て樺太に移り住んでからというもの、決まって夢に出るここの風景は、血に塗れ踏み荒らされた広大な大地に大勢の死体の折り重なった凄惨な地だった。しかし、今目の前に広がる景色は文明開化と蝦夷開拓の象徴以外の何者でもない。
若い頃、私は死から逃れようと抗うことはしなかった。
仲間が次々斃(たお)れていく内、寧ろずっとそれが当たり前であることを享受するように死を求めて戦場を駆け回った。しかし、死を恐れる者は死に、生を捨てた者は生き延びた。
仲間の死骸の上に立ち、ただ死に時を失った。その喪失感はついぞ消えることなく心を蝕み、二度と踏まないと決めたこの土地に私を誘(いざな)った。
蒸気船から降り、浜辺で休んでいると船員を先導していた男が振り返った。
「おやご老体、少し休みましょうか」
「いいや問題ない。貴殿こそあまり優れないと見受けるが幾らかお休みになられては如何か」
「いやはや。土方くんの目には衰えがないな。恥ずかしながら刀を抜いて暴れ回ることも田畑を耕すことも久しくしていないもので足腰が弱っているらしい」
「……その名で呼ばないでくれ」
「失敬。最近物覚えが悪いんだ」
男は船員たちに休んでくるように指示を出すと私をある建物に誘った。煉瓦作りの荘厳な建物だ。周りの建物からかなり浮いている。
男の名は榎本武揚。
私がここへ来るきっかけになった張本人だ。
弐拾年前、この男も旧幕軍として共にこの地へ足を踏み入れた。その後は天の悪戯かひどく断罪されることもなく新政府にて貴族となり、私の目の前に再び現れた。この男は私が重傷で運び込まれた際、腕の立つ西洋医師を呼び治療させ、あろうことか立ち向かうべき官軍から隠すように樺太へ逃げる道を開くことで私から死を奪った。
「痴呆の進んだ老人は山に捨てられるぞ」
私は敢えて榎本をおちょくるような言葉を選んだ。
「死体でできた山にか? そりゃあおもしろい」
榎本は口角も上げず、窓の外を見つめたまま涼しい顔でそう答えた。
皮肉を交わすこの一時に昔とは違う穏やかで平穏な時の流れを感じる。
「きみの口上に乗せられて私は散々な目にあったよ」
榎本が云った。突然の語りかけに私は答える。
「私なんかは子爵殿のお心遣いのおかげで極寒の浮島に送られた」
「土方くんには死んで欲しくなかったのさ」
それに寒いところは得意だろう、と続いた。
「大の苦手だ。だからあの時も大急ぎで行軍した。寒くて寒くて手先が凍りつく思いだった」
春の函館の野道がどんなに険しく厳しいものか。
慣れない洋装に身を包んで指先から裂けるような痛みに耐え、砂のような雪に沈み込みながら、せめて戦場で死にたいと呻く味方を担いで行軍するのはさながら純白の煉獄を彷徨い歩く亡霊になった心地であった。榎本は戦争において常に合理性を求めたが、あのとき私は相手が人間ならばこちらもまた人間に過ぎないことをいたく心に刻まれた。
「そうだな。此方の作戦なんか構いなしに先へ先へ進んでいくものだったからいつ全滅の知らせが届くか気が気でなかった。懐かしいな」
鈍色の空が震えた。
目を凝らすと遠洋で鯨が潮を吹いている。アイヌの船に囲まれていることにまだ気がついていないらしい。
榎本は笑みを浮かべて云った。
「おや、アイヌじゃないか。彼らもこんなところで必死なものだな。鯨の肉は食えたもんじゃなかろうに。ああまでして故郷にしがみつきたいものかね」
実に冷たい笑顔であった。翳りの見えるような、しかし熱のこもった瞳の奥にその真意は見えない。
「元々ここは彼らの土地だ。幾百、幾千年の歴史を紡いでいるのは我々と変わらん」
「いいや、ここは我々日本の、天皇陛下の土地だ。ここだけじゃない、軍の手の及ぶすべての土地がそうだ」
そういう意味ではない、そう云っても私の話を聞かない人間であることはわかっている。
口をつむぎ、天を仰いでいるとあちらからも布の擦れる音、続いて背もたれに体を預けた軋む音。小さなため息が聞こえた。
すっかり慣れた椅子に坐して向かい合っているが、こうしていると過去の記憶が次々よみがえってくる。
目の前の老人も出で立ちが様変わりしたとは云え欧州仕込みの立ち振る舞いの鼻につくようなところもまるで変わっていない。
「……なあ土方くん。日本はすっかり変わったよ。私たちは武士の国を作ろうとしたがここに政府が作っているのは農奴の国さ。ここでしこたま米を作り、本邦では大勢外国人を雇い、軍の強化に税を割いて出鱈目な西洋そっくりの建物を建てて欧州の帝国の仲間入りをしようって話だ」
榎本は続けて、列強だよ、と云う。
私はこの男の意図がわからない。目を開き顔だけを榎本のほうへ向けるとただ思うように口に出した。
「そんなことが何になる。帝国主義の恐怖にさらされたこの国が他国を脅かし、植民地でも手に入れようと云うのか。……老人の世間話につき合うために祖国へ帰ってきたわけではない。子爵殿の目の前にいるこの老人は油を売る時間も惜しい卑しい下民に過ぎないのでね」
一瞬の静寂ののち、榎本は申しわけなさそうな表情を作り姿勢を正した。
この一瞬の感情を剝きだしにした表情はこの男の演技なのか本心なのか、私には見極めることができない。
「すまない。本題は別だ。土方くん、私の部下を会ってはくれないか」
「とうとう本当に痴呆に成り果てたか。榎本武揚も落ちぶれたものだな」
私は音を立てて椅子から立ち上がった。この男の話に耳を傾ける気持ちは消え失せ、当てつけのようなこの仕打ちから逃れたいと半ば本能的に拒絶した。
しかし榎本は私の顔も見ず、「まあ、まあ、坐りたまえよ」と胡散臭い柔和な声色で宥め、後ろに立つ男に目配せした。
私は男が足早に立ち去るのを見、浮かせた腰を渋々下ろした。
「子爵殿がただの墓参りに誘うような人間で無いことはわかっている。しかしこんな爺に頼むことはないだろう。部下に会え、などどういう了見だ。ゆめゆめ政府へ取り入れなどとは云うまいな」
「話を聞いてくれるか。さすが土方くんだ」
張り付けたように険しい顔が崩れないが榎本なりに喜んでいる。
声色の明るさがそれを物語っている。だがそれとは対照的に部屋の空気はいっきに張り詰めたものに変わっていた。
「入ってきてくれ」
扉の向こうへ呼びかける榎本の声に応じて入ってきたのは洋装の、我々よりも一回りほど若い老人だった。老人は腰にサーベルを携えている。
「おい、どういうつもりだ」
「覚えているかね土方くん。彼のことを。彼は今、私の良い部下だ」
「久しいですな、副長殿」
現れた老人の声はしわがれていたがその重く響き刺すような低音にはひどく聞き覚えがあった。
私はこの老人のことをよく知っている。思わず立ち上がりうわずった声でその名を口にした。
「斎藤一……。お前、生きていたのか」
斎藤一、かつて新選組として共に在った試衛館以来の仲間だ。
袂を分かった京都から会津若松へ向かった以降行方が知れず、どこかで戦死していたとばかり思いこんでいた。
「彼は山口二郎だよ土方くん」
ふざけた名を名乗っているものだ。
右腰に得物を下げる馬鹿は他にいるはずがないのだから、上官にはすぐに誰だか気づかれるだろう。
「近藤局長の一報は会津にも届いておりました。ほどなくして副長殿も蝦夷にて廃したと」
「死んだよ。土方歳三はここで死んでここに埋まっている」
「存じています。土方歳三という武士はここに」
ここに、と胸をたたいた。
「斉藤一という男もそこにいるか。」
「……はい」
「そうか」
嫌な笑みを浮かべる互いの顔を見合わせた。
一瞬だけ、過去と今が重なったようだった。
「山口くん、土方くん。私は武士の国を諦めた。この手の中にすることが怖くなったのだ。国というものに圧倒されたのではない。君たち武士という生き物に畏怖したのだ。そうして今も恐れている」
我々をその場から動かせまいとする妙な立ち回りで榎本は私たちの間に割って入った。
「とうに知っている。今さら何だ」
私が問うと間髪入れずに榎本は語りだした。
「そうやって腹のうちに秘めた己なんかより規律や矜持に死んでいく。そんな君たちが私はまだ恐ろしいよ。将軍さまもきっとそうであったに違いない」
仏頂面の斎藤が口を開く。
「どうして今そんな話をする必要があります」
「今だからさ。最後になるから聞いてもらおうと思ってね。土方くんの死に場所を奪った私は同時に榎本武揚という男の死に場所まで奪ってしまった。君たち武士を腹も切らせず殺したんだ」
我々の間に割り込んだ榎本は一歩、二歩と前へ歩み出る。
「斉藤一は生まれ持っての武士だが私は田舎の薬屋だ」
「いいや二人とも武士だ。正真正銘の」
暫くうつむいた榎本は顔を上げ、似合わぬ澄んだ瞳をこちらへ向け、張った声でこう言った。
「そして私も。本当は腹を切るつもりだったのだ。こんな汚く裏切り者として生きていくつもりは無かった。結局のところ小心者だったのだ。この小心者はこうして死にきれず贖罪の気持ちでこれまで生きてきた。二人にたっての願いだ。私は今から腹を切る。介錯してくれ」
「子爵、なにをおっしゃる」
斉藤がギンと鋭い眼を向け唸るような声で榎本を制止した。
私は静かに頷くことしかできなかった。
「ありがとう、ありがとう。私はここで死にたかったのだ。ここで死ぬのが一番いい」
「揃って気でも狂ったか。もはや武士でも何でもない我々が腹のひとつやふたつ切ったところで意味などありますまい。どうか考えを改められよ」
「山口くん、私という武士はまだこの戦場に生きているのだよ。そして呼ばれるのだ。毎夜毎夜、この地に眠る同胞たちに。眼を閉じると最前線に立つ土方くんの怒号や大砲の轟音、機関銃の雨の音が聞こえてきてね。毎晩あのときに戻されて戦い続けているンだ。勝てる、勝たねばならぬと。しかしつい先月、私ははじめてあの夢から解放されたのだ。もう戦わない。戦場にはいない。だが同時に考えた。刀を握らぬ武士の意義をだ。刀を握らず、戦場に立たず、矜持を持たない武士の生きる明日など無い。だから君たちを呼んだ。榎本武揚という武士が武士として死ぬ為に」
榎本の話を聞いている私はかつての土方歳三だった。
鬼と呼ばれたかつての私に戻っていた。
「俺も忘れたことはない。あのとき、落馬し斃(たお)れたあの瞬間にいつも囚われていた。しかしお前のことも哀れに思っていた。土方歳三は死んだ。だが、榎本武揚はずっと明治の時代まで死ぬことはなかった。戦場に身を置き去っている。ここで死ぬというのなら俺は止めない」
押し黙ったままの斉藤が重々しく口を開いた。
「私は子爵殿が子爵になる以前のことはまるで知らないがこの鬼が一度決めたことは天地が返っても曲げないことはこの場の誰よりも知っている」
この場に立つ三人の武士は今日までのいっさいを感じさせないような若々しさと殺意に包まれた。
窓の外を舞う梅の花弁ですら許されぬ静寂。
その静寂を切ったのは榎本だった。
「これで頼む」
腰から下げていたサーベルのほかにこの部屋に隠していたのか一本刀をこちらへ投げた。
「お前の刀か。まだ手放していなかったとは」
「手放すものか、あの世まで持って行きたいほどの逸品だ」
銘は越前(えちぜん)康(やす)継(つぐ)。
榎本の愛刀たる一振り。
「何振り作らせてもこれに勝る名刀はない」
私が死んだらその刀は息子に預けると決めている、持って行ってくれるなよ、と続けた。
榎本の言葉を一顧だにせず斎藤は訊ねた。
「腹を切るには何を」
「及ばぬよ。二振り備えがある」
少しの間目を閉じ再び一言。
「辞世の句は」
「無用」
榎本は軍服の下に白襦袢を着込んでいた。
さながらの死に装束。
洋装を解いた姿に威厳と翳りが見えた。
「死相がまるで見えんな」
斎藤が呟いた。
榎本の顔に死相はないが俺には榎本を睨みつける閻魔が見える。
閻魔の顔もまた榎本と寸分も違わぬ容貌である。
「見えずとも首を落とせば死ぬよ」
「それで死ななかったら化け物として退治するほかあるまいな」
「相変わらず冗談がひどいな。斎藤は」
「副長の歌には遠く及びませぬ」
短刀の前に座した榎本は静かに問うた。
「介錯は」
斎藤が顔色一つ変えずに答える。
「俺がやろう」
抱えていた康継を斎藤に手渡す。
掌が重なる一瞬間、耳打ちすると斎藤は小さく頷いた。
「斎藤一、介錯致し候」
榎本は声も上げず静かに左腹へ短刀を突き立てた。
間髪入れずかっと右腹へ刃を滑らせ真一文字にかき切る。
鮮やかな切り口に紅の真珠が連なり見事な刀捌きに思わず感嘆を漏らす。
斎藤が声をかけても
「しばらく、しばらく」
と云うばかりで手を緩めることなく十文字を描ききるとやがて座したまま動かなくなった。
幾度と無く腹を切らせてきた中でもこれだけのものは見たことがなかった。
斎藤の手の内で主の血の一滴も吸わず役目を終えた白銀の刃が鈍く輝くをただ見るばかりだった。
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