明日、あなたは死ぬとして、何に後悔しますか?
私は乳がん患者だ。2014年大晦日にがん告知を受け、2015年は、がん治療一色の1年で、未だに治療は続いている。
がん告知を受ける2ヶ月弱前、私はNYCマラソンを自己ベスト3時間10分で駆け抜けていた。健康だと思っていた。でも、その時から既にがんだったんだ。
告知を受けて、ショックだった。だが、どこか夢の話にも思えた。だけど、検査検査の毎日が過ぎ、実際に、胸を摘出する手術を受け、摘出した 腫瘍のがん細胞が思った以上に悪性度が高く、微小とはいえ、転移まであったと告げられた時、それは紛れもなく現実で、死というものが肌に貼り付いた気がした。
それから1週間、死というものを、深く、深く考えた。恐怖から逃れる為だったのかもしれない。いや、希望が欲しかったからなのかもしれない。どちらにせよ、私は自分に問いた。
”私は明日死ぬとして、何に後悔するだろう?”と。
真っ先に頭に浮かんだのは、徒歩通勤中、よくすれ違う盲導犬を連れたおじさんの姿だった。
おじさんは、たまに横断歩道の前で盲導犬と共に止まっている。ニューヨークは、信号を守らない人が多いので、いつが青信号か、犬も判断しづらいのだ。(通常、青信号だと一斉に人が渡るので、犬はそれで判断するらしい。)
その姿を見かけると、自分が立ち止まって、一緒に渡ってあげたい気持ちが湧くのだが、会社に駆け足で向かっている身としては、立ち止まることに躊躇が生まれる。
誰かが、助けてくれたらいいのだけど。誰かが、やってあげたらいいのだけど。
そう願って、先を急ぐ自分、その姿が真っ先に頭に浮かんだのだ。自分が後悔する事として。
3分遅刻して、上司にチラッと見られることを避けることより、こっちが大切って、知っているのに、何故、出来ない?
誰かやってくれないかな、じゃなくて、なんで自分でやらない?
やらなかった事、こんなに後悔しているのに。こんなにもやりたかったのに。
それ以来、躊躇をしなくなった。困っている人を見かけたら、手を差し出す。自分ができるなら、やる。
だって、それが、自分にとって大切なことだから。
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