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立ち止まらないと見えない風景がある。

2020年1月1日午前11時、セントラルパークに初走りに行った。

最近、気になっている東側ボートハウス裏手の木にいる梟を見て、その後は、ランブル森の小径を抜け、西側の79丁目の大木にいるアライグマに会えたらいいな。でも、アライグマに会うのはいつも夜ランの時だから、会えないかな?

そんなことを考えながら、5番街&90丁目入り口から入り、6マイルループを南下した。左手にメトロポリタン美術館が見えてきた時、鳥の囀りが聞こえた。

立ち止まり、囀りが聞こえる方向の木々を見上げる。小さな枝が揺れている。ああ、あそこだ。目を凝らす。ほら、やっぱりいた。

ブルージェイ、青い鳥。

ブルージェイは、”ジェイ・ジェイ”と鳴くことからそう呼ばれるらしい。NYCがロックダウンになって、マンハッタンから出ることがなくなってから得た知識。

ブルージェイに正月早々に出会えるなんて、正しく、僥倖。

ウキウキで、ボートハウスの裏手へ向かった。5、6人の人たちが一本の木の上を見上げている。ここに訪れる度、誰かがいる。

私もその人達に混じって、木を見上げる。枝が邪魔して、中々、見えない。少し移動して、別の角度から再度、挑戦。

いたっ!鼓動が上がる。茶色と白の樽型のクッションみたいな物体が見えた。この時間は当然寝てる。

でも、いいのだ。今日もそこにいるってことで、なんだか嬉しいのだ。

梟に新年の挨拶をして、予定通りのルートで小径をジョグしていた途中、右手に草が生い茂る脇道を見つけた。多分、今まで入ったことのない道。

どうしよう、このまま予定通り進もうか、それとも立ち止まろうか。

少し迷って、立ち止まった。舗装されていない湿った土の脇道に足を踏み入れた。左右にすすきや葦らしきものが生い茂っている。

ゆっくりと進むと、真っ赤な鳥が目の前を通り抜けた。

カージナルスだっ!

目で追うと、もう一羽が葦の中にいるのを発見。少し燻んだ朱色。カージナルスのメス。そう、カージナルスは、よくカップルで飛んでいる。

立ち止まって正解だったな。

昔の自分なら立ち止まらなかっただろうけど。

がんになる前の自分は、立ち止まることが嫌いだった。予定した物事をさっさとこなしたかったから。こなせない自分が許せなかったから。

だから、大して真剣に走り始めたわけじゃないのに、決めた距離を予定のペースで走り続けていた。気がつけば、周りから速いランナーと呼ばれていた。入賞が当たり前になると、その地位を失いたくないと思うようになった。

2014年の11月のNYCマラソンで、速いランナーもいなかったからだけど、日本人女子1位になったその年の大晦日、がんの告知を受けて、”え、ランニングどうしよう。”と思う自分がいた。それぐらい自分にとって、ランニングが人生で重要なものになっていたのだ。

3月のNYCハーフ、4月のボストンマラソン、そして、6月は、初100キロウルトラ岩手銀河が控えている。その後は、毎年走っているNYCマラソン。どうしよう、走れなかったら。

自分の命より、マラソンのことを考える自分がいた。だから、ドクター達に、聞いた。「いつから走れますか?」と。

2月の術後の病理検査で、ドクターが想定していた以上に悪性度が高かったことが判明し、強い抗がん剤に変わり、放射線治療も追加となり、主要な治療は7月いっぱいかかることになった。

3月のNYCハーフは、カツラで沿道で応援した。4月のボストンマラソンは、参加するラン友をダービーの馬に見立てて、ゲーム感覚でバーチャル観戦した。

笑って応援していたけど、内心、”自分が走っていたら”、と悔しさと焦燥感でいっぱいだった。治療を終えて、絶対、すぐに復活してみせる、今に見てろ、と心に誓っていた。

だけど、抗がん剤、放射線治療で、自分の命を守るため、自分の健康な細胞も殺戮され、肉体がボロボロになっていくのが分かると、嫌でも思い知らされた。

もう二度と、あんな走りは出来ないんだ、と。

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あれから5年間という年月が流れ、自分のランニングに対しての心の変化も沢山あった。タイムが全てじゃないと思いつつ、それにこだわる自分。もう、昔の自分に戻れないと認めながら、もがき、争(あらが)う自分。

沢山、沢山、苦しみ、辛さを抱きしめ、生き抜くことを選んだ。

だって、気づいたから。

The world we live is so beautiful. (私たちの住む世界は、なんて美しいのだ)と。

がんになり、立ち止まらざる終えなかった1年間、空を見上げ、森の匂い嗅ぎ、風の流れを感じた。人間の作った街という創造物も面白く、そこに住む人々との繋がりは、私の心を豊かにしてくれた。

マラソンも人生も、記録だけが全てではない。

記録と記憶、その二つがあってこそなんだ。

そして、結果と過程もまた然り。死という結果があるからこそ、生という過程に意味を為すのだ。

2020年は、全世界の人々が立ち止まらせられた年だった。だが、それは同時に、”気づき”の年でもあったのだ。

立ち止まったからこそ、見える風景がある。

今、あなたは、何が見えますか? そして、気づいてますか?

私たちは、こんな美しい世界に生きていることを。












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