第2章5 比喩の使い方――クサくならない比喩に限るほうが無難

■紋切り型を作ったのは新聞記者?
 比喩について見ていくのだが、とりあえず紋切り型の話から始めたい。
 紋切り型って言葉の正確な定義は、例によって誰にもできない。まあ、「慣用句のなかでとくに使われることが多い表現」ぐらいに考えておけば間違いがない(「慣用句」を「常套句」や「決まり文句」と書きかえても大差はない)。一般にどういうものが紋切り型と呼ばれるのかを見てみよう。

【引用部】
「ぬけるように白い肌」「顔をそむけた」「嬉しい悲鳴」「大腸菌がウヨウヨ」「冬がかけ足でやってくる」「ポンと百万円」……
 雪景色といえば「銀世界」。春といえば「ポカポカ」で「水ぬるむ」。カッコいい足はみんな「小鹿のよう」で、涙は必ず「ポロポロ」流す。「穴のあくほど見つめる」という表現を一つのルポで何度もくりかえしているある本の例などもこの類であろう。
 こうしたヘドの出そうな言葉は、どうも新聞記者に多いようだ。文章にマヒした鈍感記者が安易に書きなぐるからであろう。一般の人の読むものといえば新聞が最も身近なので、一般の文章にもそれが影響してくる。(本多読本p.202~203)

 これは、「第1章4」で紹介した〈只野小葉さん〉で始まる文章を罵倒したあとに続く記述だ。近年は〈新聞が最も身近〉でもないだろう、ってのは個人的な感想なのでインネンにさえならない。美脚の形容に使われるのは「小鹿」じゃなくて「カモシカ」では、って疑問も無視する。当時はそういったのかもしれないし、どっちにしても紋切り型であることにかわりはない。このほかに紋切り型の例として、〈ぼやくことしきり〉〈……昨今である〉〈……今日このごろである〉などがあげられている。
 紋切り型について語るなら、忘れてはいけない文章読本がある。

【引用部】
 新聞にも紋切型の歴史があり、それはいまも続いています。
 昔は山の遭難があるとなぜか「尊い山の犠牲」という言葉が使われました。海水検査の結果を報じるときの「大腸菌うようよ」は、これを例示すること自体がもう手垢のついた発想になっています。
 捕まった容疑者はたいてい「不敵な面魂で」警察署の中に消え、取調室では「ふてぶてしさを装いながらも」「動揺を隠しきれない」が、なぜか差し入れのカツ丼は「ぺろりと平らげる」のです。
 新しい汚職事件が発生すると「衝撃が日本列島を走り抜け」、人びとはその「大胆な手口」に「怒りをあらわ」にし、「癒着の構造」に「捜査のメス」が入って「政界浄化」が実ることを期待します。政府与党の幹部は「複雑な表情を見せ」「対応に苦慮」、国会内は「一時は騒然となって」「真相の徹底究明」が叫ばれ、「成り行きが注目」されます。しかし「突っこんだ議論」はなく、「すったもんだの末」に「永田町の論理」が支配してうやむやになり、関係者は「ほっと、胸をなでおろし」、「改めて政治の姿勢が問われる」ことになるのです。(『文章の書き方』辰濃和男p.204~205)

 例示はまだまだ続く。ここまで並べてあると、すごい芸としかいいようがない。2人のセンセーの意見に共通するのは、紋切り型は新聞と縁が深いってこと。ほぼ同じ意見のセンセーはほかにもいる。

【引用部】
 こう並べてみると、たしかに新聞記事の文章は、出来合いの表現を組み合わせて書く傾向のあることが見えてくる。てっとり早く、手短に、という新聞のこういうジャンル特性は、悪い面ばかりではない。早く的確に情報を手に入れるためには、あまり個性的な文章では困る。型どおりに書いた新聞記事なら、読者が独創的な表現にとまどうことはない。既成の表現だからこそ、事件の概略がつかみやすくなるという面もあるだろう。(中村明『悪文』p.100~101)

 一応紋切り型を擁護してはいるが、このあとに〈だが、それは新聞記事の文章という場合のことである〉と続く。結局、新聞記事で使うのもあまりよいことではなく、フツーの文章を書くときには使っちゃダメらしい。
 でもなぁ。とりあえず疑問が2つある。
 まず小さな疑問。紋切り型の愛用者は、新聞記者だけではない。現代ではアナウンサーが使っている例のほうが目立つ気がする。文章と関係ないといえば関係ないけど、あれだってたいていはニュース原稿を書く人がいるはずだ。ニュース番組では、いまだに葬儀は「しめやかに営まれる」のが一般的だし、伝統行事は「古式ゆかしく」行なわれると相場が決まっている(「古式豊かに」というと誤用になる。紋切り型のうえに誤用なので、相当恥ずかしい)。このあたりだと、新聞記事ではほぼ絶滅しているのではないだろうか。
 次に大きな疑問。「紋切り型を使うな」って心得は理解できたとしても、個々の言葉が紋切り型かどうかを判断する基準なんてない。どこかに紋切り型の一覧表でも売っているのだろうか。仮にそんなものがあったとしても、すごい数になるから簡単には覚えられないって。「これは紋切り型だろうか」なんていちいち考えていたら泥沼にはまり(これも紋切り型か)、文章なんて書けなくなる。
 まあ、とりあえずここまでにあげた表現は、避けたほうが無難かもしれない。


■安易な比喩は〈アホらしい紋切り型〉になりやすい
 紋切り型を並べるのはたしかによくない。だが、絶対に使ってはいけない、とメクジラを立てる(これも紋切り型か)ほどのものではないだろう。

【引用部】
 紋切り型とは、いわずと知れた、型にはまった言い回しのことである。副詞、形容詞、常套句(じょうとうく)、諺(ことわざ)など、それらは世にあふれかえっていて、これらを全部、使うなと言われたら、日本語の文章を進めていくのに困るほどだ。だから、無理にこれらを避けようとすると、かえって、どうでもいい場面でヒネりすぎた表現をしてしまうことになりかねない。
 要は、頻度の問題である。避けなければならないのは、紋切り型に凝り固まった文章なのだ。
「彼は、雪をもあざむくような白い馬にまたがり、抜けるような青い空の下を疾駆していた」
 たったこれだけの長さの文章に、「雪をもあざむく白」「抜けるような青い空」という具合に紋切り型が連続してしまうと、書き手が、自ら描いた映像に対して何のイメージも抱いていないことがばれてしまう。(日本語倶楽部編『うまい文章の裏ワザ・隠しワザ』p.133)

〈要は、頻度の問題〉ってこと。紋切り型だらけになるのは、すでに書いたようにウマい文章を書こうとするから。ただし、フツーの人はそんなに神経質になる必要はない。わざとやろうとでもしない限り、こんなわけのわからない表現が次々に浮かぶほど言葉を知っている人はそうはいない。もちろん、人並み外れて語彙が豊富な人は、十分神経質になる必要がある。
 この引用部にあげられた紋切り型に注意してほしい。〈雪をもあざむく白〉も〈抜けるような青い空〉も、比喩と呼ばれるものだ。先にあげた新聞で使われる紋切り型のなかにも、比喩を含むものが少なくない。比喩を含む紋切り型の場合は、ちょっと警戒する必要がある。

【引用部】
 比喩は文章の味と香りを決める大事な調味料ですが、あまりに手垢のついたアホらしい紋切り型はよしましょう。「りんごのようなほっぺ」「白魚のような手」「水を打ったような静けさ」などなど。(山口文憲『読ませる技術』p.143)

 比喩は〈アホらしい紋切り型〉になりやすい。このことを確認したうえで、やっと比喩の話が始まる。


■直喩と隠喩の違いぐらいは知っといて損はない
 実用文派の文章読本のなかで、比喩の解説に力を入れているものはさほど多くない。これには理由があると思うが、とりあえず話を進める。
 比喩にはいくつかの種類があり、使用例で考えると、圧倒的に多いのは直喩(「明喩」ともいう)と隠喩(「暗喩」ともいう)だろう。

【引用部】
 が、手始めとして表現を工夫するとき、もっとも簡単で効果的なのは、比喩だ。よく知られているように、大きく分けると、比喩には「まるで……のようだ」という形をとる「直喩」(ちょくゆ)と、「まるで」という表現を含まない「隠喩」(いんゆ)がある。そのほかにもたくさんの比喩の分類がなされているが、まずはそんなに難しく考える必要はない。高度な比喩については、人の文章を読んでマスターすればいいことであって、初めからそのようなものをマスターしようとするほうが無理だ。
 要するに、比喩というのは、物事を何かにたとえることで、それを誇張して、目に見えるように表現する方法と考えておけば、とりあえず間違いない。ふつうに書けば「私は驚いた」で済むところを、「私は、まるで初めて花園に迷い込んだ子猫のように驚いた」と言うわけだ。そう考えておいて、あとは練習してみるといいだろう。(樋口裕一『ホンモノの文章力』p.164)

 非常にわかりやすい解説で、おおむねこのとおりだ。「まるで……のようだ」以外の形の直喩もあるとか、直喩と隠喩の違いはこんなに単純なものではない、なんて厳密な話は無視する。
 この引用部は第四章の〈作文・エッセイの書き方〉の中に出てくる。だからコメントしたくないって。ここであげられた比喩の例がウマいかウマくないかは、感覚の問題になるから誰にも決められない(ってことにしておく)。ウマいと思えた人は教えに従って〈練習〉すればいい。ただし、〈練習〉の具体的な方法は書いていない。もしそんな練習方法があるのなら、ぜひ教えてほしい。どんなに苛酷な「地獄の特訓」(これは隠喩で紋切り型か)にも耐える覚悟がある。ホントに効果があるならね。
 すでに書いたように、実用文派の文章読本のほとんどは、比喩の解説にあまり力を入れていない。しかし、何事にも例外はあるもので、ほぼ1章を使って比喩を解説している文章読本がある(あえて書名は伏せる)。
 内容を見ると、直喩や隠喩のほかにさまざまな比喩を紹介している。種類名だけあげておこう。
  諷喩/声喩/換喩/朧化法/象徴法
 こういった比喩に関して、くわしく解説している。このぐらいレトリックの本を何冊か参考にすれば誰だって書ける、なんて悪態をつく気はない。話としてはおもしろいし、巧みな比喩が文章に生命を吹き込む効果がどれほど高いか、って説明もわかりやすい。しかし、「だからどうした」としかいいようがない。「だからこそ罪深い」というべきだろうか。比喩の種類をどれだけ覚えても、巧みな比喩の効果が理解できても、文章を書くのにプラスになることはめったにない。むしろマイナスになる可能性が高い。
 この文章読本は、〈天にも昇るような〉や〈砂を噛むような〉を紋切り型だとしている。一方で、〈針のように鋭い神経〉や〈氷のように冷たい心〉を比喩の好例のように書いている。これも十分紋切り型なんじゃないの。この微妙な違いがキッチリ説明できるのなら、ぜひお願いしたい。
 無責任にリクエストさせてもらえるなら、お願いしたいことがほかにもある。比喩の効果について長々と書くぐらいなら、ウマい比喩の使い方のコツを教えてほしい。そこまでむずかしいことを求めるのがムチャなら、せめてウマい比喩とそうでない比喩とを見分ける明確な基準を示してほしい。そんなものあるわけないよね。だったら、安易にすすめたりしないでほしい。使い方には注意が必要なことを、しつこいぐらいに断わってくれないと、読者が誤解する。
 ここまで書いてしまったから、個人的な「意見」をハッキリさせておく(もうハッキリしてるって)。比喩に関する有効な心得は「ムヤミに使うな」ぐらいしかない。それ以外にいい方があるとすれば、「よほどのことがない限り使うな」だけ。


■比喩はどちらかというと芸術文の領域
 何もかもひっくるめて、どんな文章でもすべての比喩を使うな、と主張する気はない。比較的使いやすい比喩もあるが、その話はあとに回す。例によって、文章の種類がかわれば事情もかわってくる。芸術文と実用文とでは話が大きく違う。実用文のなかでさえも、比喩を使わなくても書けるものと、比喩を使いたくなるものがある。そのあたりのことに注目しているセンセーの意見を見てみよう。

【引用部】
文章技術に限っていえば、もっとも容易に書けるのは算数(数学ではない)の問題文である。なぜ容易に書けるのかといえば、たとえば比喩が不用だからである。隣組の回覧板の文章や法律文などもお手本があれば、どうにか書けそうだ。比喩を考える必要がないからである。商業文にしても同じだ。新聞記事や社説などはどうか。これはすこしむずかしい。記事文や社説には、XはYのようだ、YそっくりのX、Yに似たX、YめいたX、YよりもYらしいX、Y顔まけのX、Yに負けないほどのX、YにもまぎらうX、YもおどろくX……といった直喩はほとんど用いられることはないが、隠喩が大いに使われており、そこがすこしばかりむずかしいのである。(井上読本p.239~240)

 このあとに、〈ヤミ手当〉〈魔女(女子バレーボール選手)〉〈植物人間〉など、新聞に登場する隠喩が多数紹介されている。こうなってくると、どこまでが隠喩なのかって問題も出てくるが、無視して先に進む。

【引用部】
 のこるは随筆、小説や戯曲、そして詩といったところだが、この順序にしたがってむずかしくなるのではないかと思われる。使われる比喩の量と文章を書くことのむずかしさとが正比例するからである。つまりその文章が世の中の中心から外れれば外れるほど、個体的、個人的なものになればなるほど、比喩の量がふえて行き、その分だけ文章を書くことが骨になるのである。(井上読本p.240~241)

 少し表現をかえると、「比喩の量は芸術文と実用文とで大きくかわる」ってことになる。なんなら、「芸術文と実用文の違いは比喩の量と質によって決まる」ぐらいのことをいってもいいかもしれない。これは実用文のなかでもあてはまる。「比喩の量は文章の種類によって少しかわる」ってことだ。
 ずーっと前に「第1章1」で、〈エッセイ(身辺雑記)やルポルタージュ(旅行記)はやや特殊で実用文と芸術文の中間に位置すると思う〉と書いたのは、このことなのだ。
 うんと簡単な例で考えよう。
 白い花が咲いているのを見たとする。身辺雑記なら庭先で、旅行記なら旅先で、ってことになるだろうか。その花のことを書こうとすると、「白い花が咲いていた」と書くだけではなんか物足りない。いろいろある白のなかでも「どんな白なのか」、「どんな様子で咲いていたのか」を書きたくなる。さらに、その花が「どんなふうに見えて」、そのことによって「どんな気持ちになったのか」なんてことも付け加えたくなる。こうなると、比喩のひとつも使いたくなるのが人情だ。
 どの程度比喩を使うのかは、各自の表現力と相談してもらうしかない。表現力に自信のある人は、好きなだけやればいい。表現力に自信のない人は、できるだけ控えめにするほうがいい。そうしないと、クサい表現になる。「クサい表現」って言葉が曖昧に感じられるのなら、〈悪しき文学趣味〉って言葉を使っておこう。個人的には「控えめ」よりももっと消極的で、花について書くこと自体を避けたくなる。だってクサくなるのヤだもん。
 自然描写ってのは、限りなく芸術文の領域に近い話になる。情景描写ってのも、それに準ずる。先にあげた〈雪をもあざむく白〉や〈抜けるような青い空〉の例を見れば明らかだが、ウカツにやると取り返しのつかないことになる。〈アホらしい紋切り型〉であるうえにクサい表現なんだから、かなり悲惨だ。
 実用文派の文章読本のなかで比喩のことがあまり語られていないのは、このへんの問題のせいだろう。ごく少数の勇敢なセンセーを別にすると、危険を察知して回避している。
 先にあげた『読ませる技術』(山口文憲)の例が典型だ。コラム・エッセイをテーマにしているんだから、本来なら比喩についてもっと説明していても不思議ではない。しかし〈比喩は文章の味と香りを決める大事な調味料〉(隠喩)としながら、〈アホらしい紋切り型はよしましょう〉としかいっていない。
 この〈調味料〉の例だけでなく、『読ませる技術』には巧みな比喩がいろいろ出てくる。そういう比喩の使い手でさえ(「使い手だからこそ」か)、具体的な使い方の説明を回避してサラリと流している。説明するのはとんでもない難題、ってことがわかっているからだ。
 ウマい比喩ならどんどん使えばいい。しかし、ウマい比喩の作り方のマニュアルなんて存在しないし、比喩のデキの善し悪しを判断する基準もあるわけがない。それなのに、ヤタラと比喩の種類を並べたり、長々と比喩の効果を語ったりしてなんの意味があるのだろう。それがどれほど無責任で罪作りなのか、わからないのかね。単なる「見せびらかし」で、もっといえば悪質な「そそのかし」だ。フツーの人がフツーに比喩を作ったら、どんなことになるのかは簡単に想像できる。確実にヘンな文章になる。子供が相手の場合は話がまったく別になるが、イイ大人相手にバカなことをすすめるんじゃない……こういう感情的な書き方をしてはいけません。
 ついでに書くと、身辺雑記や旅行記は芸術文に近づくので、接続詞の必要度も低くなる。ほかの実用文に比べて、いくぶん少なめにすることを心がけたほうがいい。さほど神経質にならなくても、フツーに書けば少なめになるはずだ。


■アホらしい、クサい、ヘタ……それでも比喩を使いたいですか
 比喩の話に戻り、ほかの文章読本がどんな感じで説明を回避しているのか見てみよう。

【引用部】
 異質のものを結びつける遊びに、比喩があります。
「絹雲」を表現するのに少し気取って「透明感のある衣」と書いてみる。小鳥の飛ぶさまを「投げた石のように弧を描いて飛ぶ」と表現する。いろいろと苦労をするあの比喩のことです。比喩には、直喩、隠喩、換喩、提喩などがありますが、ここでは深入りしません。
 比喩がいかに人びとの理解を助けるか、作家、丸谷才一の次の文章を味わってください。『文章読本』のなかの一節です。(『文章の書き方』辰濃和男p.141)

「透明感のある衣」(隠喩)と「投げた石のように弧を描いて飛ぶ」(直喩)の印象に関しては、コメントしない。
 このあとに、延々と丸谷読本が引用されている。たしかにみごとな比喩が使われていて、比喩の使い方の見本にしたくなる。しかし、これは明らかに反則。丸谷読本は、内容が芸術文寄りなだけではなく、文章自体がほとんど芸術文になっているからだ。おそれ多くて、参考になんてできない。まあこの『文章の書き方』って文章読本は、なんの目的があるのか知らないが、引用文の大半が芸術文だからしょうがないけど。
 大半の文章読本が比喩について語るときに持ち出すのも、やはり芸術文だ。そりゃそうだろう。〈アホらしい紋切り型〉でもなく、クサい表現でもない比喩を、芸術文以外から探すのはそう簡単ではない。

【引用部】
 では、「野球」と「ベースボール」はどう違うのでしょうか。『ワシントン・ポスト』紙のケビン・サリバン(Kevin Sullivan)記者が、じつにおもしろい比喩を同紙に書いていました。(原文はここで1行アキ)
  野球とベースボールは寿司とマクドナルドのフィッシュ・バーガーほど違う。原材料は同じ魚だ。しかし、まったく異なる文化の中で、まるっきり違ったものになってしまっている。(原文はここで1行アキ)
「野球」と「寿司」に「ベースボール」と「フィッシュ・バーガー」を対比させた組み合わせが愉快です。比喩をつかう文章は、文学に多く見られます。実務文でも、もっとつかうべきです。ただし、実務文では比喩のつかいすぎに気を配ることが大切です。(高橋昭男『横書き文の書き方・鍛え方』p.163)

 ここで紹介されているのは芸術文ではないと思うが、素直に〈じつにおもしろい比喩〉だと思う。だからといって、〈実務文でも、もっとつかうべきです〉なんて意見に賛成する気にはなれない。「実務文」ってのがどんなものなのかはよくわからないが、「ビジネス文書」に近いものらしい。そのテのものに比喩なんて必要なんだろうか。
 この引用部に続いて紹介されているのは、例によって芸術文だ。しかも、この『横書き文の書き方・鍛え方』のp.66には〈文学の文章と仕事上の文章は、言葉の用法という点で、根本的に異なります〉とまで書いてある。こうなると単なる反則じゃない。相当悪質で、レッドカードの一発退場もの(ヘタな比喩だな)……と書いて、またひとつ比喩の問題点に気がついてしまった。〈アホらしい紋切り型〉じゃなくても、クサい表現じゃなくても、「ヘタな比喩」があるってことだ。
 こんなに比喩の悪口ばかりを並べていると、〈うるさい小姑に似ている〉(直喩)とか意地悪をいわれそうだ。少し前向きなことを書こう。
 比較的無難なのは、ギャグとして使う比喩だ。もともと、比喩には異質なものを結び付けたりする働きがある。落差が大きければ大きいほどいい、といわれているからギャグになりやすい。レッドカードの話も一種のギャグなんだから、わかる人だけがわかればよろしい。そういう書き方は独りよがりな文章の典型で、いちばん避けなければならないのでは……ウルッサイ!


■クサくならない「類喩」なら比較的無難
 気を取り直して、ホントに前向きなことを書こう。安易に使われた比喩がおちいりがちな悪い例として、3つのパターンをあげてきた。

1)〈アホらしい紋切り型〉
2)クサい表現
3)ヘタな比喩

 このうち、いちばん警戒しなければならないのは2)だろう。たいていの1)は2)の要素も含んでいると思うから、とにかく2)を防ぐことが最優先。3)に関しては、個人の技量にもかかわることなのでなんともいえない。
 1)と3)のことまで考えると話がややこしくなるので、ここから先は2)ではない比喩を使うコツに話を絞る。それは、類似する事物をクサくなく提示することだ(メンドーなのでこれを「類喩」と呼ぶ。それじゃ比喩とほとんどいっしょだろう、ってツッコミは禁止。個人的な「意見」になっているってツッコミも、とっくに手遅れなので禁止)。
 類喩は、直喩の形になる場合もあるし、隠喩の形になる場合もある。「たとえ話」とでもいえばわかりやすいだろうか。むずかしいもの(抽象的な事物など)を身近なもの(具体的な事物など)にたとえるのだ。比喩の一種なのは間違いないが、どう違うのかを見てみよう。

【引用部】
 しかし、学術的な論文はもとより、論述文一般について、情景を描写するための比喩は、あまり過剰でないほうがよい。葬儀の席でセクシーな香水が漂うような感じになってしまうからである。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.124)

 ここに登場する〈葬儀の席でセクシーな香水が漂うような感じ〉(直喩)は、明らかに確信犯的に使われている。一種のギャグ(センセーがやる場合は「技」と呼ぶべきか)と考えることもできる。個人的にはウマいと思ったが、「唐突」と感じる人もいるかもしれない。これ以上深入りはしない。
 そもそも身辺雑記や旅行記以外の論述文で、情景描写が必要になることは少ない。仮に情景描写が必要だとしても、比喩まで必要なことなんてあるのだろうか。まあ、この問題も深く考えるのはやめておこう。
 このあとに、論述文でも使いやすい類喩の例がいろいろとあげられている。はじめに登場するのは、人体を使う類喩だ(当然ながら、類喩なんていい加減な言葉は使っていない。フツーに「比喩」と呼んでいる)。

【引用部】
 さまざまな対象について、人間の身体に喩えるのは、最も有効だ。人体ほど精巧に発達したものはないからだ。一つ一つの器官が機能分化しており、各々は非常に高度の機能をもっている。しかも、その機能は誰でも知っている。だから、喩えようとするときには、まず人体を考えるとよい。
◆日本経済のどこが問題なのか? これまでは、手足が少し疲れただけだった。しかし、どうも中枢神経が冒されているようだ。脳さえ損傷しているかもしれない。 
◆首が飛ぶかもしれないときにヒゲの心配をしてどうする(映画「七人の侍」における村の長老の言葉)。
◆高速道路は動脈だが、毛細血管にあたる市町村道も重要だ。
 慣用句になっているため、つぎのように、人体を用いた比喩であることを意識しないものさえ、多数ある。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.124~125)

 このあとに、〈頭でっかち〉〈頭隠して尻隠さず〉など、人体を用いた表現が多数並んでいる。慣用句なのかことわざなのか、よくわからないものもある。紋切り型に近いものも多い気がするので、とくに引用はしない。
 そのあとに紹介されているのが、人体以外を使った類喩の例だ(一部の用例や解説を省略している)。

【引用・抜粋部】
【1】自動車の部品や装置
 エンジン、ブレーキ、アクセル、シャシーのように機能分化しているので、「牽引する」「止める」「加速する」などを表すのに使える。「会社を発展させるには、技術という強力なエンジンが必要だ。同時に、間違った方向に暴走しないためのブレーキ役となる人も必要である」というように。
【2】会社の組織
 総務、企画、営業、人事、経理、工場のように機能分化しているので、「企画部門ばかり強くて営業が弱い会社のようだ」「本社ばかり立派にして工場が古いままの会社のようなものだ」などと使える。
【3】誰もがよく知っている人名
◆スターリン的恐怖政治、周恩来的政治手腕。
◆ナポレオンとヒトラーをあわせたようなことになる。
◆ゴリアテスに立ち向かうダビデのような人だ。
【4】歴史的事実
◆ITは第二のゴールドラッシュだ。印刷術の発見のようなものだ。第二の産業革命だ。
◆日本経済は、氷山に衝突する直前のタイタニック号のような状態だ。
◆ドイツ軍が冬のロシアに攻め込んだようなものだ。
【5】特定の機能を表す代表的な地名
【6】スポーツもしばしば有効
◆マラソン選手に短距離を走らせるようなものである。
◆ボールなしでサッカーをやろうというようなものである。
【7】自然現象
【8】漢語を用いた表現
「人生にはいろいろなことがあって……」と長々と述べるより、「塞翁(さいおう)が馬」というほうがよい。一般に、長い表現は印象を散漫なものにする。短い表現で一撃のもとに仕とめる必要がある。この目的のために、中国の故事は有効だ。とくに、『三国志』は宝庫である(ただし、誰もが知っているわけではないから、簡単な説明が必要かもしれない)。
◆韓信の股くぐり、泣いて馬謖(ばしょく)を斬る、孔明の嫁選び、三顧の礼、桃園の契り、死せる孔明生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす、等々。
 もちろん、『三国志』以外にも、便利なものが多い。
◆朝三暮四、木によりて魚を求む、九牛の一毛、滄桑の変、等々。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.126~128)

 このなかでもとくに使いやすいのは、【1】【2】【3】【6】あたりだろうか。
 人体を使った類喩や【1】【2】の例を見ればわかるように、機能や特徴を〈誰でも知っている〉のがポイントになる。〈機能分化〉がハッキリしているほど用途が広いが、別に分化していなくてもいい。例としてあげるものがよく知られているほど、わかりやすい類喩になる。細かいものなら、ほかにもいろいろ考えられるはずだ。料理、食べ物、学校、教科、国、都道府県、動物……どれもあんまりいい例じゃねえな。動物の場合は紋切り型になるものも多いので、使い方に注意が必要になってくるし。
【3】【6】に関しては、「第1章2」で名文の話をしたときに実例を紹介している。
 井上読本が使っているのは、【3】と【6】の複合技。具体的に選手名をあげることの功罪は、あそこで書いたとおりだ。
『読ませる技術』(山口文憲)が使っているのは【6】の好例で、文章道をモータースポーツにたとえている。尻馬に乗って(動物を使った慣用句)当方がズラズラと書き足したように、共通点が多い例なら、いろんなことが書ける。
【8】はよく目にする類喩だが、別の問題がからんでくるので、諸手をあげて(人体を使った慣用句)賛成することはできない。どうしても使いたいなら、多用しないことと、辞書などで調べることぐらいは徹底したほうがいい。


■個人的な「意見」を少々──古臭い紋切り型は文章をジジムサくする
 比喩に関する記述の後半は、個人的な「意見」になってしまった。もうこれ以上書く必要はない気もするが、紋切り型とのからみで少し付記しておきたい。
 まず、紋切り型に関する個人的な経験。
 数年前に、慣用句だらけの文章を書いたことがある。最大の理由は、高齢の読者が多いPR誌の原稿だったこと。たくさんの材料を少ないスペースに詰めこむ必要があったせいもある。はじめは無意識だったが、途中からは意識的にやった。その結果、次のような表現が並んだ。

【慣用句の例】
破顔一笑/目配りも忘れない/矍鑠(かくしゃく)とした/得心した顔でうなずく/
お墨付き/驚嘆の声をあげる/心なしか悲しげ/険しい表情/
強烈なカウンターパンチを浴びる/壮大な歴史絵巻き/舌を巻くほど/
屈託のない笑顔/勢威を誇った/顔をくもらせた

 半分以上は自分の語彙にない言葉だ。「語彙にない言葉」なんてどこからもってきたんだ、ってツッコミはごもっともだか、考え方が間違っている。知識として知っていることと、ちゃんと使えることは別問題。目にしたことはあっても自分では1回も使ったことがない言葉なんて、「語彙にない」というべきだ。正直に書くと、このときまで「得心」は「えしん」と読むと思いこんでいた。
 ここに並べた慣用句のうち、どこまでが紋切り型なのかは専門家にきかないとわからない。こういう表現を嫌うセンセーは、〈紋切型の表現に充満している〉と小間物屋を開く(一種の比喩だが、ほとんど死語)かもしれない。
 書き上がった原稿をいま読み返すと、自分で書いたものとは思えない。ウマいとかクサいとかを通り越して、ひと言でいえば、ジジムサくてたまらない。そういう雰囲気の言葉を選んだつもりではあったが、ここまでジジムサくなるとは思わなかった。
 ここに並べた慣用句のうち、紋切り型になっていないものは、たぶん古臭い表現だ。こういう言葉をムヤミに使うと、ジジムサい文章になる。
 類喩の例としてあげたもののなかにも、「ジジムサさ」を基準に考えると、気をつけなければならないものがある。クサくなるよりはずーっとマシだが、注意するに越したことはない。
 まず〈【4】歴史的事実〉。これはかなり危険度が高いので、ジジムサくなるのがヤな人は避けたほうが無難だ。〈【3】誰もがよく知っている人名〉も、歴史上の人物を例に出すと危険度が高い。信長、秀吉、家康の比較なんてのは、とくに紋切り型になりやすい。逆手にとって(人体を使った慣用句)、ウマくまとめることができると効果はきわめて高いけど。ただ、新しい人名ならいいってわけでもなく、コテコテのアイドルなんかを出すと文章が軽くなる。そうなることを狙ってあえて例に出すのは、やや高等テクニックになる。
 微妙なのは〈【8】漢語を用いた表現〉で、たしかにウマく決まれば「サスガ博学」って印象になる。しかし、失敗すると単にジジムサい文章になってしまう。〈誰もが知っているわけではないから、簡単な説明が必要かもしれない〉が、どの程度説明するのかが難問だ。説明が簡単すぎるとわけがわからないし、説明がクドいとダサくなる。このあたりはケース・バイ・ケースとしかいえない。
 これとやや似ているのが、ことわざの使い方だ。

【引用部】
 以下は、文章の入口と出口の話。文章の書き出しをことわざで始めるのはもうよしませんか。「人間、なくて七癖というが」だとか「喉元すぎれば熱さを忘れるということわざもあるが」とか。古すぎます。(山口文憲『読ませる技術』p.151)

〈古すぎ〉るのでジジムサくなる。持ち出すことわざの難度が上がるほど、ジジムサ度も高くなる。かといって、ありふれたものを持ち出すとありがたみが薄れるし、紋切り型になる可能性が高い。
 悲惨なのは、意味を間違って使ってしまうケース(これがまた非常に多い)。間違ってはいなくても、使い方のピントがズレているのもよくある。間違っていても、ピントがズレていても、オバカに見えてしまう。
 成功してもジジムサく、失敗するとオバカ。それでも使いたい人はご自由に。

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