第2章  3 一文の長さ――「短く書け」を徹底すると稚拙な文章になる

■長い一文はなぜダメか
 前に書いたように、「短く書け」は「文章読本が説く五大心得」のひとつに数えられるほど重要な心得だ。ほとんどの文章読本は「短く書け」と主張し、長い一文を目のカタキにしている。
 長い一文がなぜいけないのかを、論理的に説明している文章読本もある。たとえばこんな感じだ。

【引用部】
 毎年膨大な財政の赤字を出すことが示す地方自治制度の欠陥に対して、根本的な対策をきめるのが、こんどの国会の大きな使命の一つだと説明されていた。(新聞)

 これは、主語がないわけではなく、ちゃんとある。しかし、その主語がなかなか出てこないのが、この文が悪文になる原因となっている。主語はなるべく早く出した方がいい。しかも、主語と述語との距離は短い方がいい。そこで、両方の要望を満足させるのは、なかなかむずかしいが、たった一つ道がある。それは、短い文を書くということ。これは、あらゆる場合の鉄則と言っていい。(岩淵悦太郎編著『第三版 悪文』p.125)

 この意見はかなり厳しい。この例文レベルで悪文扱いされたんじゃ、世の中悪文だらけになってしまう。ちなみに、この引用部の後半の5行を読んで、なんかヘンな感じがしないだろうか。文頭に注目すると理由がハッキリする。

  これは、/しかし、/主語は/しかも、/そこで、/それは、/これは、

 7つのうち6つが、接続詞か指示語で始まっている。多くの文章読本は、こういう文章も目のカタキにする。なぜこんな書き方をしたのかはわからないが、原因は予想できる。以前、実験的に必要以上に一文を短くして書いたら、ちょうどこんな感じの文章になった。
 それはさておき、この論理は強力だ。

  1)主語はなるべく早く出す
  2)主語と述語との距離を短くする

 この2つを徹底すれば、必然的に一文が短くなる。反論の余地はなさそうで、思わずひれ伏したくなる。
 長い一文がなぜダメなのかは、むずかしい論理に頼らなくても経験的にわかる。グチャグチャと長い一文は、それだけで読む気がしなくなる。何が書いてあるかわからない文章も、たいてい一文が長い。
 ほとんどの文章読本が「短く書け」と主張するなかで、次のような力強い例外もある。

【引用部】
文が長ければわかりにくく、短ければわかりやすいという迷信がよくあるが、わかりやすさと長短とは本質的には関係がない。問題は書き手が日本語に通じているかどうかであって、長い文はその実力の差が現れやすいために、自信のない人は短い方が無難だというだけのことであろう。(本多読本p.154)

〈わかりやすさと長短とは本質的には関係がない〉ってのは正論だけど、ここまで強くいいきられてもなぁ。長い文だと実力がないのがばれるってことでしょ? 遠慮しときます。
 もう少し論調の弱いものもある。

【引用部】
「文章を極端に長くしない」は、わかり易い文章を書くときにあまりにも当然のこととして理解されていることだが、そう決めつけるわけにもいかない。例外も多いのだ。書かれた内容に読み手が強い関心を持っており、書き手と読み手のリズムが合っているときなどは例外となる。例えば、英文学者で評論家の吉田健一の文章は、長いことで有名だが、それを読み易く、内容も頭に入り易いという人が多いのだ。しかし、私個人にとっては苦手な文章の一つといえる。このことから、文章は意識して、長くしたり短くしたりする必要はないが、できれば、あまり長くない方が読み易いといえるであろう。(宮部修『文章をダメにする三つの条件』p.184~185)

 吉田健一の名前は、文章読本ではおなじみ。一文が長くてもわかりにくくない例としてよくあげられる。それは書き手の個性とでもいうべきもので、例外中の例外。一般の人がマネしたってまともな文章にはならない。
 こういう記述を見ていくと、当然(でもないか)素朴な疑問が湧いてくる。一文の「長い」「短い」は何を基準に決めるのだろうか。

■長くない一文の基準
 一文の長さに関して、具体的な目安を文字数で示している文章読本もある。『文章読本さん江』のp.64には3者の意見が紹介されている。

1)平均で30~35字というところ(辰濃和男『文章の書き方』)
2)平均で40字ぐらいまで(中村明『名文作法』)
3)40~50字以下(安本美典『説得の文章術』)

 ちょっと気になるんだけど、「40~50字以下」って「50字以下」とどう違うんだろう。まさか、すべての文を40字以上50字以下にするってことじゃないよな。そんな神業みたいなことを要求されても困る。
 一文の長さに関しては、このほかにもいろんな説がある。例によってそれぞれのセンセーの個人的な意見なので、微妙に違ってくる。

【引用部】
もし、あなたが書いた文章があれば、それを文字数によって測り、一文あたりの平均値を出してみるとよい。句読点やかっこを除いた文字の数で、もし、六十を越すようであれば長すぎると考えなければならない。そのときには、どのように長いのかを分析して、対策を考える必要がある。(樺島忠夫『文章構成法』p.167)

【引用部】
これは一文が長すぎる。そのため、曖昧な文章になっている。一文が六〇字を越したら要注意。小論文の場合、文体に凝るよりも、わかりやすい文体を心がける必要がある。(樋口裕一『ホンモノの文章力』p.60)

【引用部】
 実務文での平均的な1文の長さは、「40字前後」がいいと思われます。『朝日新聞』の「天声人語」では、1文あたり平均30文字程度で文章をまとめています。(高橋昭男『横書き文の書き方・鍛え方』p.99)

 なかには、とんでもなく細かく刻んでいるものもある。こういうのも親切というんだろうか。

【引用部】
 このようにいろいろな条件で数値は違ってくるが、これを読みやすさという観点から見ると、一般的にいって、平均三〇字未満となるような文章は「やさしい」と考えていい。平均三五字あたりでも「かなりやさしいほう」で、平均四〇字ぐらいまでなら「ほとんど抵抗がない」と思われる。平均四五字前後で「ふつう」、平均五〇字を超えると「少しむずかしい」部類に属し、平均六〇字を超えれば「むずかしい」文章と考えられよう。そして、平均で七〇字を超えるようなら「非常にむずかしい」文章といってさしつかえない。(中村明『悪文』p.126)

 いろんな意見があって、ますます基準がわからなくなる。「何を根拠にこんな数字を出しているんだ」なんてツッコミを入れてはいけない。もともと「わかりにくい」とか「わかりやすい」って判断自体が感覚的なものなんだから。絶対的な数字なんて決まるわけがない。それでも各センセーの研究や経験に基づいた数字だけあって、そう大きくは違っていない。
 どうやら文字数の目安は、「平均」で出すのが主流らしい。だが、平均値の算出はそう簡単な作業ではない。〈句読点やかっこを除いた文字の数〉なんて流儀になると、さらにカッタるい。文章を書くときに、こんなことを考えてられないって。
「平均」がつかないほうなら、簡単に判断できる。「ちょっと長いかな」と思ったときに確認すればいい。ここであげた例のなかで「平均」がついていないのは、「40~50字以下」と「60字」だ。この基準より短く書けばいいわけね……ってちょっと待ってほしい。大目に見てくれている「60字」だって相当厳しいよ。すべての文を60字以下にすることなんて、本当にできるのだろうか。

【引用部】
 短く書く。困難な課題だ。センテンスをブツブツ切る。調子が狂う。やってみればわかる。「天声人語」の文章みたいになる。新聞記者の短文信仰にも理由がある。新聞は一行十一字詰め(昔は十五字詰め)で印刷される。一文が短くないと、読みにくい。のだ。(『文章読本さん江』p.65)

 これはギャグでやっている文章だが、短く書くことを徹底するとこんな感じになっても不思議ではない。「天声人語」みたいな文章になる程度で済むならいい。たいていは、もっと悲惨な文章になる。ところが「短く書け」と主張するセンセーがたの文章は、そんなことにはなっていない。「サスガ」なんて感心してはいけない。ここまでの引用部の文章を見ればわかるはずだ。お手元にほかの文章読本があるなら、確認してみてほしい。平気でけっこう長い一文を書いているセンセーが多く、短く書くことを徹底している例を探すのはむずかしい。それらしいものをあげておく。

【引用部】
 文章は、いくつもの言葉が組み合わされてできています。したがって、その基本である言葉を正確に読み、そして書くことが文章を作るうえで一番大切です。文章を磨くうえでまず大切なことは、「言葉を磨く」ことです。
 最近とくに感じることは、漢字離れです。とくに若い方々にその傾向が顕著です。我々が常識として知っておきたい漢字の基準として存在するのが、「常用漢字」です。
 全部で1945字あります。新聞につかわれている漢字とほぼ同じです。一口に常用漢字と言っても、これをマスターすることは少々困難です。漢字能力検定試験の2級程度に相当するからです。ただし、このレベルの漢字は、書けないまでも、読めるようにはしておきたいものです。(高橋昭男『横書き文の書き方・鍛え方』p.10)

 引用部は3つの段落に分かれている。個人的な感覚では、2つ目の段落の前半と、3つ目の段落の前半には異和感がある。ちなみに、各文の文字数は次のようになっている。

・第1段落 26/45/29
・第2段落 19/18/39
・第3段落 13/20/32/23/40

 文章読本でおなじみの「数字を使え」って教えに従ってみたけど、「だからどうした」って気がする。数字を出しさえすればいいわけじゃないってことか。まあ、20字以下の文が続くとなんかヘンな感じになることがある、ってことかもしれない。文字数だけで判断するわけにはいかないけど。
 もちろん、これはとくに短さが目立った部分を拾った結果だ。全編がこの調子ってわけではなく、ほかの部分はこれほど極端ではない。こういう極端な例をあげて、「短く書くな」なんて主張する気はない。ただ、「短く書け」を実践して自然な文章にするのは簡単じゃない、と思うだけです。

■長くてもわかりにくくない文の構造
「長い一文」とひと口にいってもいろいろある。長い一文はたいていわかりにくいが、例外もある。これは文の構造が違うせいらしく、そのあたりを説明している文章読本もある。

【引用部】
むろん、長い文といってもいろいろあって、みな同じにあつかうのは非常識だろう。部分的に文の情報が完結しながらいくつもつながって、結果として長くなったくさり型の長文なら、環(わ)の一つ一つの独立性が高いため、少々長くなっても、その構造上比較的わかりやすい。一方、同じ長文でも、文頭の副詞が文末の述語にかかったり、文中に他の文が組み込まれていたりする複雑な構文の長文になると、段違いにむずかしくなる。が、いずれにしても、長い文は短い文に比べて、読んで理解するのに時間がかかるという点が共通している。(中村明『悪文』p.122)

 フーム、そうなのか。この記述を見たときには、なんとなくわかった。なんとなくわかったけど、そこまでだった。頭が悪いからかな。その後、似たような記述は目にしたけど、どうもスッキリしなかった。やっと素直に納得できたのは、次の記述を見たときだった。

【引用部】
 わかりにくくなる最大の理由は、この文が複文であることだ。
 一般に、文は、主語、目的語、補語、述語などから構成される。一つの主語とそれに対応する述語(および、目的語、補語)しかない文を、「単文」という。完結している複数の単文を順に並べていったものを、「重文」という。これに対して、複数の単文が「入れ子式」になったものを、「複文」という。
 記号的に表すと、重文は、
 (主語1、述語1)、(主語2、述語2)、(主語3、述語3)
となったものであり、複文は、
 主語1、(主語2、述語2)、(主語3、述語3)、述語1 や
 主語1、{主語2、(主語3、述語3)、述語2}、述語1
のような構造のものである。つまり、複文においては、主語、目的語、述語、修飾語などの各々(あるいは一部)が、文から構成されているわけだ(これらを「節」という)。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.155)

 何やらむずかしそうに見えるが、論理的に書くとこうなってしまう。
 一般に流布している心得のなかでは、

・主語と述語を近づける
・修飾語と被修飾語を近づける

 などが、この複文の話だ。わかりにくい文は、複文で構造が複雑な場合が多い。単文に分割するか、単純な構造の複文に書きかえればいい。
 どういうことなのかをハッキリさせるために、うんとバカバカしい例を考えてみる。

【重文の例】
 小林がクリームパンを食べ、中村がカレーパンを食べ、鈴木がジャムパンを食べた。

 これなら登場人物がどんなに増えても、食べた物が多少増えても、そんなにわかりにくくはならない(文として自然かどうかは別問題)。ところが、ちょっと書きかえると話が違ってくる。

【やや複雑な構造の複文の例】
 佐藤は、小林がクリームパンを食べ、中村がカレーパンを食べ、鈴木がジャムパンを食べるのを見ていた。

「佐藤は」と「見ていた」が離れてしまうので、多少わかりにくくなる。これぐらいなら問題はないかもしれないが、あいだに入る部分が長くなればなるほどわかりにくくなる。単純な構造の複文にしてみる。

【単純な構造の複文の例】
 小林がクリームパンを食べ、中村がカレーパンを食べ、鈴木がジャムパンを食べるのを佐藤は見ていた。

 このように書きかえれば複文ではあっても主語と述語が近いので、わかりやすくなる。ただし、この方法だと全体の主語である「佐藤」が出てくるのが遅くなるので、なんだか不安定な文になる。やはり長い一文は避けたほうが無難ってことだろう。
 本多読本(p.28~29)は、もっと複雑な複文の例をあげ、〈修飾・被修飾関係の言葉同士を直結〉すればマシになることを示す。

【原文】
 私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った。

【修正文】
 鈴木が死んだ現場に中村がいたと小林が証言したのかと私は思った。

 よくこんなすごい例文を考えつくもんだ。こうなるとちょっとしたパズルよりむずかしい。『「超」文章法』(野口悠紀雄)は、わかりにくい複文の例として、次の文を出している。

【引用部】
 (I)私の友人が昨年大変苦労して書いた本は、パソコンが普及し始めた頃には、
  異なるアプリケーションソフトが共通のOSで動くようになっていなかったた
  め、データを交換することができず、非常に不便だったと述べている。(p.154)

 さらにこの文がわかりにくい理由を分析したうえで、余計な記述を削除して3つの文に分解している。

【引用部】
 (II)パソコンが誕生して間もない頃には、異なるアプリケーションソフトの間でデ
  ータを交換できなかった。このため、非常に不便だった。私の友人は、著書の中
  でそう強調している。
(I)よりはずっと読みやすい。読みやすさのためには、単文にまで分解するのがよい。すなわち、一つの文章内での主語を一個に限定する。ただし、単文主義で押し通すと、小学生の作文のようになってしまう。そこで、もう少し工夫する必要がある。(p.160)

(I)から(II)になる過程で、〈普及し始めた頃〉が〈誕生して間もない頃〉にかわっているのはなぜ? 〈述べている〉が〈強調している〉にかわっているのはなぜ? 「余計な記述を削除すること」と、「表現をかえること」って別なのでは。などと妙なインネンをつけるのはやめておこう。重要なのは、〈単文主義で押し通すと、小学生の作文のようになってしまう〉ってこと。そんなのは当たり前なんだけど、その当たり前のことを書いてくれている文章読本はめったにない。
 そりゃそうだろう。「短く書け」は、ほとんどの文章読本に共通しているありがたい教えだ。その教えに従って短く書くことを徹底した結果が〈小学生の作文〉じゃ目も当てられないから、簡単に認めることはできない。しかし、〈小学生の作文〉は言葉が過ぎるとしても、ヘンな感じになることが多いのは事実なんだからしかたがない。

■個人的な「意見」を少々──たしかに一文は短いほうがいいみたいだが
1)やはり一文は短いほうがいい
 文字数を目安にするのはあまりいい方法とは思わないが、とりあえず手っ取り早い方法ではある。目安としては、60字ぐらいだろうか。60字を絶対に超えちゃいけないわけではなく、できるだけ60字以内におさめるほうが無難って程度のこと。もう少し長くても構わないが、わかりにくくなる可能性が高くなる。100字以上なんてことになると、危険度はきわめて高い。

2)一文が長い場合は文を分割する
 このテの方法は多くの文章読本で紹介されているので、具体例をあげるのはやめる。ちなみに、前にふれた「が、」を「。しかし」に書きかえるのは、分割の典型。分割すると接続詞を使うことが多くなるはずだ。接続詞が目立つようなら、先にあげた要領で削除することを考える。
 クドいのは承知でもう一度繰り返しておく。一文を短くすると、接続詞を減らすことはできない。「できない」がいいすぎなら、「きわめてむずかしい」。このことにふれずに、「短く書け」といいながら「接続詞を減らせ」と断定している文章読本は、それだけで読む価値はない。なんか、ムチャをゴリ押しする文章読本みたいな書き方になってるな。この数行だけで大半のセンセーを敵に回す気がする。まあいいや。

3)一文が短い場合は文を結合する
 一文を短くすることは、それほどむずかしくない。すべての文を単文にしてしまえば、一文は間違いなく短くなる。問題は、単文ばかりが続くとヘンな感じになること。そんなときには、あえて単文を結合すると不自然な感じが緩和できる。
 いくつの単文を結合すればいいのかは一概にはいえない。理想をいえば、長い文と短い文がバランスよく入っているのがいい。しかしそんなことをいい出すと、リズムだの文体だの個人の趣味だの……といった得体の知れない話になる。とりあえず無難なのは、2つの単文を結合していくこと。その程度なら、一文が長すぎてわかりにくくなることはめったにない。ところどころに単文が入れば、リズムもソコソコの線になる。
 先にあげた例で見てみよう。

【引用部】
 短く書く。困難な課題だ。センテンスをブツブツ切る。調子が狂う。やってみればわかる。「天声人語」の文章みたいになる。新聞記者の短文信仰にも理由がある。新聞は一行十一字詰め(昔は十五字詰め)で印刷される。一文が短くないと、読みにくい。のだ。(『文章読本さん江』p.65)

 前から順番に、2つの文を結合していく。

【修正案1】
 短く書くのは困難な課題だ。センテンスをブツブツ切ると調子が狂う。やってみればわかるが、「天声人語」の文章みたいになる。新聞記者の短文信仰にも理由があり、新聞は一行十一字詰め(昔は十五字詰め)で印刷される。一文が短くないと、読みにくいのだ。

 こうするだけで、フツーの文章に近づく。順番に2つずつ結合したため、4つ目の文は少しヘンなことになっている。結合のしかたにもう少し工夫が必要だろう。

【修正案2】
 短く書くのは困難な課題だ。センテンスをブツブツ切ると調子が狂う。やってみればわかるが、「天声人語」の文章みたいになる。新聞記者の短文信仰にも理由がある。新聞は一行十一字詰め(昔は十五字詰め)で印刷されるので、一文が短くないと読みにくいのだ。

 これならフツーの文章として通用する。ただし、こんなことをやらかすと、せっかくの秀逸なギャグが台なしになる。

【引用部】
 パソコンが誕生して間もない頃には、異なるアプリケーションソフトの間でデータを交換できなかった。このため、非常に不便だった。私の友人は、著書の中でそう強調している。(野口悠紀雄『「超」文章法』p.160)

 1つ目の文と2つ目の文を結合してみる。

【修正案】
 パソコンが誕生して間もない頃には、異なるアプリケーションソフトの間でデータを交換できなかったため、非常に不便だった。私の友人は、著書の中でそう強調している。
 最初の文が少し長くなったが、58字なので目安の範囲におさまっている。

 ここで注目してほしいのは、読点の問題。個人的な趣味では、【修正案】の「頃には、」の読点か「なかったため、」の読点か、どちらかを削除したくなる。2つの文になっていたときには、この読点があってもまったく気にならなかった。なぜ結合すると削除したくなるのかを説明するのは難問。ということで、次はちょっとメンドーな句読点の話になる。



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