遊ぶこと

小学校時代の放課後のあの時間ってすごく貴重だったと思う。一度家に帰ってから集まってくる子どもや、帰る時間がもったいないからとそのまま気の済むまで遊んでから帰る子どもと、いろいろだった。思い思いに集まって、あのゆったりとした時間の中で伸び伸びと遊ぶ時間で培ったものは大きいのかなって。


現在コロナ禍において活動停止となっている部活動であるが、活動していた時にこんな違和感を感じた。

今年度から母校に勤務している。中学時代汗を流したグラウンドには後輩たちがいて、僕は顧問としてグラウンドに立つ。でも僕たちが中学時代に自然と出来たことができない。

たとえば...
瞬時に次の塁を狙う動き、とその判断。自分の頭上に飛んだライナー性の打球に対して、ジャンプして捕球する際のタイミングやボールの位置感覚。体の向きを反転させたり、切り返したりするような動き。あるいは、状況を確認したり、次に起こり得るプレーを共有したり、守備位置を打者によって変えたり...


僕と目の前の中学生は何が違うのだろうと考えた時に、これらのことはすべて遊びの中で自然と培ったものだなぁって思った。


缶蹴りで仲間を救う時の行くか行かないかの一瞬の判断、木登りで頭上の枝を掴む時の感覚、人数が集まらなかった時、臨機応変にルールを変えること、グランドが使えなかったりベースがない時は、遊具の柱や置いてあったタイヤを目印にして三角ベースでやったり...でやりながら時には喧嘩になったり言い合いをしながら、でも親や先生なんかに頼らず自分たちで解決して行ったんだよなぁ。

子どもって遊びの天才だから、場所と時間があって人が集まれば、それだけでなんでもできたよなぁ。そしてそういった遊び方は上級生のお兄さんたちに教わったんだよなぁ。

小学校って今は、やれ不審者対応だとか、安全確保だとかで一斉下向になってたり、帰ってからも校庭を遊びで使えなかったり、あるいは学習塾や習い事で遊ぶ時間が無かったり...

下手したら休み時間の遊び方まで指定されたり...なんてことももしかしたらあるのではないだろうか。


そんな子どもたちが中学校に入ってきて、入った中学校がもし、教師主導で生徒を管理、コントロールする学校だったらどうだろう。

「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」(苫野2014,2019)

そんな学校だったらどうだろう。自主勉強という名のもとの強制自学プリントを毎日提出し、出せない生徒には居残りというノルマが課されていく、そんな学校だったらどうだろう。テストの際には大量のワークや課題の提出に追われ、テスト勉強=ワークの丸写し(手の運動、写経タイム)。そういう生徒がどれだけいるのだろうか。

義務教育の最後の砦である中学校、守られた環境の中で、遊ぶという経験にどっぷり浸れるのは義務教育までである。


学校を楽校に。もっともっと子どもたちの力を信じていい。

遊ぶ経験を積み重ねていない子どもたちだからこそ、学校の中でもっと遊ばせてあげたい。いや、一緒に遊ぶくらいの心のゆとりを持って、生徒と関わりたい。日々の学びが生徒にとってワクワクすろような自立的な学びになったらいいなぁと。


そして、働き方改革からくる部活動縮小や社会体育移行への動き、いろいろな視点から考えなければならない。部活が生徒にとってそういった、「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」というような息苦しさから解放される場、発散の場であるということもまた事実である。そしてコロナ禍の今部活ができずに、ストレスを溜め込んで苦しんでいる生徒が多くいることも少なからずいることが事実である。部活は教育課程外の活動だからという一元的な見方から論じてはいけないとも思う。学校のあり方、生徒のあり方、教員のあり方、地域や家庭のあり方、いろいろな視点から考えていく必要がある。

「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」は苫野一徳さんの著書から引用した言葉です。

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