先生と呼ばれる価値

以前、母が腰の骨を骨折して、救急病院に運ばれることがありました。

80歳を超えて、普段から膝が悪く、手術をするかどうかを悩んでいて、これで完全に自分で歩く事が出来なくなってしまったようです。精神的にも追い詰められ、ある意味、生きる希望をも失いかけているように見えました。さらに、追い打ちをかけるかのように、運ばれた都立病院から、これ以上の治療は出来ないので地元の病院に移るようにという通達とのことでした。

見るに見かねて、僕の知り合いの小さなクリニック(内科)のY先生を紹介しました。

夜、母に電話をしてみると、とても元気な声で「いい先生だったよ。骨をしっかりさせる薬を飲みながら、一緒に治療してくれるということで、必ず歩けるようになるって言われた・・・」と希望に満ちた返事でした。

Y先生は、どの整形外科に行っても、治療しようがないと言われるだけかもしれないことを説明してくれて、自分ができる限りの治療をするという対応をしてくれたようです。点滴をして、電気をかけて、その日は3時間近くクリニックにいたようです。辛いときは、いつでも来ていいですよ・・と言ってくれたそうです。

僕は、ずっと先生と呼ばれる仕事をしながら、最近、その価値について、考えています。

生きるための「想い」を相手の立場に立って考えられ、そしてそのために努力を惜しまないような存在・・・

「先生と呼ばれる価値」は、お金や社会的な立場、職業、役職ではなく、この「想い」を持ち続けられるかどうかということではないでしょうか?

教師という仕事を続ける限り、この「想い」を持ち続けられる存在であり続けたいと思う今日この頃です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?