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歪み

長き時をうつろえば、ものであろうがひとであろうがなにかしら変質するものです。1年前の果物は腐ってデロデロになっているでしょうし、10年前の自分は自分であって自分でないでしょう。最近、私の周りの人も変わってきた部分が目に見えて出てきているのを観察し、そんな風に物思いに耽ってしまいました。

数年前に知り合った時は「辛いもの」と対面した時に呻き、嘆くことしかできなかった友人がいました。その友人は近ごろそのような出来事にぶつかった場合、そもそも他人への考え方を変えて「許容する」という選択肢を手に入れていたり、自分だけでは処理できない場合は友人知人へ現状を相談して事態の改善を図ることを覚えていたり、そのような対抗策を使うようになっていました。これは精神的に安定した人間になれる非常にいい傾向であり、成長する人間を見ることは気持ちのいいことだと感じました。これとは逆に知り合った時はまだ安定した友人が数年の時を経て不安定な状態になっているのを観測し、これは非常にいけない傾向だから自分に何かできることはあるのだろうかと憂慮していたりもします。一概に友人と言ってもどこまで踏み込んでいけるのかは人によって大きく異なりますし、そもそもほとんどの場合は他人の事情など労力を費やすに値しない方が多いのですが、こればっかりは私が損な性格をしているのだと思います。もちろん私には私の生活がありますし、メンタルの許容限界というものがあるのであくまで「出来るだけ」ではありますが、私の手が届く範囲の人くらいは自分で自分をコントロールして笑顔で日々を過ごせるようになってほしい。私はそう願っています。

そこまで考えて私がなぜこのような考えになったのだろうと考えたところ、これは色々あって歪んだせいだろうなと感じました。ここ数年の私の人生は今まで歩んだ道の中でも激動の数年間でした。幾度とない失敗で心が折れ、半年ほど療養をし、友達の優しさに触れてちょっと立ち直り、それでも少し卑屈になったことは戻らず、とりあえず生きていなくてもいいから死なないようにしようと考え、数年ぶりに夢中になれたものと出会って少し活力は戻り、今まで通りとは言えないけど楽しく生きようと日々を生きはじめて、運がいいことも多々重なり、なんのかんのあって楽しい事ばかりじゃない世の中だけど今を楽しく生きています。以前から他人のことはある程度好きでしたが、そんな風にゆがんでひずんで立ち直ってからは、ちょっと卑屈になってより他人を好きになりました。自分のことは自分しかわからないですが、自分には出来ないことを出来る他人なんて星の数ほどいます。そして、その人から自分に与えられる恩恵は思っている以上に大きいものです。その恩恵は言動を観察すれば自分に直接何かをしてもらわなくても得ることが可能であり、なんなら嫌われていても得られるものはあります。正直、やりすぎである事は自覚しています。しかし、今更他人を見ることで生き残ってきた自分を変えることはできないので末永くこの歪みと付き合っていかなければならないと思いながら、私は今日も生きています。

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