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否定しきれぬ思い

あまりにも聖夜に似つかわしくない内容なのだが自分は吐き出したものを保留して後で投稿することが出来ない性質なので今投稿することにする。

私は死にたいという気持ちをそう易々と否定することが出来ない。
「ヘラって死にたいと言っている人は本当に死にたいのではなく助けて欲しいと言っている」等とほざく奴が居るが死にたいと言っている奴は本当に死にたいと思っていると私は考えている。それが真剣に言っていようが呟くように言っていようが関係ない、死にたいもんは死にたいのだ。そのような考えである理由は私もそのような状況になり頻繁にその言葉を繰り返していた時期があるからだ。詰んでいるとしか思えない出口の見えない状態、そこから先に進むという気概すら湧いてこない心。神や輪廻転生、死後の世界など信じていない私が「いっそ死んでしまったほうが楽である」そのような結論を捻り出すのは火を見るよりも明らかだろう。

事実、私は半ば衝動的にキッチンへ足を運び包丁を手にしたことがある。「これで全部終わらせよう」そう思って包丁を頭上へと振りかぶった。正直、そんなことをしなくても人は死ぬ。おそらく、振りかぶった時はそんなこと考えていなかった。ただもう生きるのが嫌だったのだ。そこまでしていざ振り下ろそうとしたのだがそこまでやったところで頭の中に何かが浮かんだ。それは友との記憶だった。「私は何も出来ない、どうすればいいか分からない」持ち前の前向きさも自信も無くしそう愚痴を垂れ流す私に対して「自分から見ればkuroニキは出来る方の人間だと感じるし、何かしら自信を付ければ上手く行くポテンシャルはある」そう友から言われた記憶だ。言われた当時は(じゃあどうすれば自信は付くのか?結局、挫折を繰り返し何一つ成し遂げていない私には何もないじゃないか)そう思い後ろ向きになった言葉であったのだが、私は自分に刃を突き立てる直前に思い出したその記憶に猛烈にしがみつきたくなったのだ。

そう思うと他の記憶も蘇ってきた。仲良くしてくれた人と初めて面と向かって会って知らぬ街中をはしゃぎながら一緒に歩いて観光した記憶。珍しく遠出していた自分に会うためにわざわざ家から抜け出して会いに来てくれた記憶。「いつかやりましょう」と言っていたカードゲーム対決を果たし、未だに大事に持っているカードを手渡しされた記憶。ドライブのアタマからケツまで車を出してくれた友人と助手席に乗りながら話倒した記憶。最も遠い地から来た者と遊んで騒いでバカみたいに甘いクッキーを貰った記憶。その他諸々の友の記憶が次々とフラッシュバックしてきたのだ。気が付くと振り下ろそうと包丁を力強く握っていた手は弱弱しくなっていた。死にたいという思いより「そんな友と二度と会えなくなる、それはあまりにも惜しい」そんな思いが勝ったのだ。今思うと衝動的に死に向かおうとしたタイミングが実家のベッドの上で良かったと強く思う。仮に駅のホームだった場合、一歩踏み出して全部終わっていたかもしれない。結局、また成し遂げられなかった私は床に突き刺さるほどの力で包丁を投げつけた後に毛布にくるまり不貞寝した。

私にはそのような経験があるから死にたいという思いを否定できないのだ。自分自身そのような友が居なければ振り下ろしていただろう。それなのに死にたいと思っていなくても心の内などそう易々と理解できない他人に対して「死ぬなんてことはやめよう」なんて言葉を言えるだろうか?そんなものは「先の見えない絶望だけどいつになるのか知らないけどいつかきっとどうにかなるからなんの寄る辺もないけど前に進め」そう言っているのと同じだ。そんな楽観視は自分の意志でやるものであり他人が言うものではない。それは薄氷の上にいる人間の氷を蹴り砕く最後の一押しになりかねないからだ。

結局、死にたいという気持ちは自分で寄る辺や光を見出す以外にどうしようもないのだ。だから、私は死にたいという気持ちを否定できない。せいぜいその人の寄る辺や光を探す手伝いしか私にはできないのだから。

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