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理解ある隣人とかいう存在

おはよう、こんにちは、こんばんはkuroです。
電車待ちしてたら思いついたことをつらつらと綴っていこうと思います。
相も変わらずサムネは適当です。

今更いう必要もないと思いますが私は頻繁にツイッターを利用しています。友達や知人、フォロワーから全く知らん大勢の人まで多種多様な色んな人の考えや面白いと思ったものが大量に流れて来るので自分の気色の悪い趣味が捗る楽園なんですね。そんな中、他人のRTでよく流れてくるツイートの1つにレポ漫画というものがあります。絵描きさんが日常であったことや珍しい体験、ときには受け狙いの捏造話もあってこれまた多種多様です。文字とそこら辺から見繕ってきた画像でならば私もよくやるので恐らく作りやすいのでしょう。なんなら今私がこの文章を綴っている事だってやってる事はそう変わりありません。まあ、そんなことは置いておくとして今回話題にしたいのはそんなレポ漫画に出てくる精神が弱った時に急に沸いて出てくる「理解ある彼くん」みたいなのを叩く流れがあったことを先日思い出したことにより気付いたことについてです。

当時の自分もそういうレポ漫画を読んでいたら急に生えてくるメンタルやられてる自分に対して理解のあるパートナーみたいな存在に対して「そいつは何処から生えてきてなんでお前に寄り添ってんだよ」って感じたし、その意見自体は未だに変わっていません。しかし、メンタルやった後にいざあの漫画を思い出すと(パートナーかどうかは置いといてメンタルやってるときに理解のある隣人は大事だな)と昔なかった視点を持つことが出来るようになっていました。なぜなら、メンタルやった時に親と友達から助けられた部分が割かしウェイト大きめにあったからですね、パートナーなんざいねえけど。そんなツイッターで読むメンタルやった時の漫画でパートナーとの出会いやらなんやら詳細に書かれても困るからああいう構成にしたのかなーという発想が今更出たのと同時に友達やパートナーや親という理解のある隣人が居ない人はどうやってメンタルやった時に立ち直るんだろうねって遠い目になりました。自分は幸せな人間なので人生で出会うべき人間とは出会うようにできていると思っているから「死ななきゃなんとかなるんじゃない?」っていう楽観的な意見を投げて終わっときます。

最後に
引きました



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