見出し画像

路傍の石

 とある場で雑談に近いやり取りをしている中「取るに足らない人間が己を覚えてほしいのなら同じ場所に留まっているしかない」という主旨の言葉を投げかけた人間がいた。それに対し私は「自分は覚えて貰わなくてもいいと感じている、路傍の石でいい」そういう旨の発言を返した。その言葉は間違いなく心の底から出た答えだったのだが、時間が経つにつれ段々とこの自分の発言に違和感を覚えた。

 確かに路傍の石は何かと都合がいい。他人に対する評価には色々ある、親しい人、嫌いな人、自分にとって有益な人、害のある人、そして路傍の石のようにどうでもいい人。基本的にこれらへの人間の態度はそれぞれ異なるものであり、その全てが観察に値する貴重な情報だ。しかし、間柄が険悪に寄ってしまうと基本的にはマイナスの態度が多くなる。するとその人の観察という観点からすると入ってくる情報が偏りがちになってしまう。逆に親しい間柄だと自分に対しては主にプラスの態度を向けられるだろう。ただ親しければ愚痴や世間話でマイナスも見えてくるので理想を言えば全員と仲良くなることが一番観察が捗るのだが、そんな時間も人柄も私は持ち合わせていない(というか無理)。なので、普通に過ごせばなれて立ち回り次第でどっちも見れる有象無象の路傍の石は都合がよく、先の話題で「それでいい」などと発言した理由はそんなところだ。

 しかし、どんなところでも路傍の石だとそれはそれで悲しい。腹を割って話をしたり、馬鹿話ができる程度には親しい隣人というものが居ないと私は少なくない寂しさを抱えてしまうだろう。寂しさと言ったら女々しく感じてしまうが、それはメンタルの不調を引き起こしかねないバカに出来ない感情だ。結論として私は「別にいいよと諦めながら、心のなかでは仲良くして欲しいと願っているめんどくさい人間」である。そんなことを寒空の下で考えていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?