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生きるの下手すぎて危ない思考をしてた話

 自己肯定感というものがこの世には有る。ありのままの自分をどれだけ肯定できるか、要するにどんだけ卑屈にならずに生きてけるかみたいなニュアンスの言葉だ。卑屈さはパフォーマンスの低下を招き、パフォーマンスの低下は結果を出す妨げとなり、結果が出せないと自分なんてとより自己肯定感が下がる。あり過ぎるのも困りものだがあまりにも無いとそのような負のループから延々抜けることが出来なくなくなっていく。私はある日からそのようなループの中で歩いていた。

いつか終わるとか言われても
この出口のないトンネルをもう歩けねえんだよ
※金色のガッシュは大好きな漫画です

 自己肯定感が地の底に落ちている時を今でも覚えている。私の場合は卑屈な人と言われて最初に想像するような「やる前から諦めたような思考」で生きていたというわけではなく「やった後に悲観的になる思考」を常に持っていた。「どうせ私は何も出来ない」ではなく「出来たけど私に出来たのだから大したことではない」といった思考回路である。自己肯定感が下がる前からこのような考えを持ったことがないわけではないが、自己肯定感が下がり始めた境目からこの思考回路は加速していき、ありとあらゆる事柄にこの考えを当てはめていた。

その割に他人の達成へは心から称賛を送っており
他人から称賛を送られたら謙遜の気持ちが強かった
自分を人と思ってなかったのではないかとも思える

こんなふうに生きてきたらどうなったか?答えは自分の向き不向きを正しく認識できなくなり、同時に他人の気持ちが分からなくなっていた。「乙の過程に関わらず私が出来たことなんて大したことがない」という思考は逆手に取ると「私が出来たことは他の人にとって容易に実現可能なものである」ということだ。明確に言語化出来ていたわけではないがそのような考えが私の中に確実にあったのだ。その結果「私は印象的な出来事や物語のワンシーンだったら20年以上前でも覚えてるものだから他の人も同じである」「私は到達したのだからスプラトゥーン2内の最高ウデマエであるXなんで誰でもいけるものだ」「私はよくテンパるしミスするけど他人はもっとしっかりやってるんだろうな」といったことを無意識ながら本気で思っていた。

バカだったんだと思う

人間は忘れる生き物であり保育園の頃に家で暴れ散らかしてた記憶だろうが小学校の頃に読んだコロコロの漫画だろうが中学時代の家族旅行だろうがお仕事でムカついた記憶だろうが去年やったゲームだろうが印象的であればそこそこ正確に思い出せる人間の方がどう考えても珍しいし、WiiUの頃からスプラトゥーンを飽きもせず4000~5000時間プレイしてる異常者寄りのゲーマーが最高ウデマエのXなんて誰でもいけるよwとか言ってたら私ならおもっくそ顔面ひっぱたくし、下を見て安心する思考はあまり好きではないが自分以上の早とちりやミスをやらかす人なんて外に目を向ければ案外いっぱい居る。それなのに私は私が出来ることを出来ないと悩んでいる人がこの世に存在することを本気で不可解や不思議に思っていた。繰り返すが本当にバカで愚かだったのである。

そう考えると自分を卑下していたのではなく
自分以外の人間全てを神格化していた可能性がある
諸説あります(ユニ博士)

これにより他人にはない自分の強みというものが見えなくなり、同じ道程を歩いてきたから理解可能なはずだった「出来ない他人」の苦しみや痛みが理解できず「何故私じゃないのにこれが出来ない苦しみが存在するのか」と思ってしまい手助けや対処できなくなっていた。これは自分の成長を妨げると同時に他人を傷つけかねない危ない考えであり、生きていく上で相当マイナスに働くことである。間違っていたと気付き始めたときは人間とは思い込みでここまで状況判断ができなくなるのだなと自分自身に呆れと驚きを隠しきれなかった。

思い込みって怖いもんですね

 そのような辛く苦しい期間を過ごしたわけだが無駄なものだったとはあまり思っていない。人はこれほど盲目になれるとその身で体験出来たわけだし、自分自身が人生というクソゲーを楽しむために押し付けるべき強みも見えてきたと思っている。諸事情あり暗い気持ちが精神に根付いて二度とほどけなくなったところで、やはり根っこはプラス思考なのだろう。結局のところ、清濁併せ呑もうが呑むまいが私は前に進むしか無いのだからプラス思考が前に出る性格で良かった。そのようなことを最近思っている。

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