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飲み会不参加の呟きを見て感じたこと

先日、とあるツイートが話題になっていた。「上司からなんで飲み会に不参加なのか聞かれたから、給料が出る業務時間ではないので出る必要性を感じない、仮にその場で必要なことがあるのならば飲みの場ではなく業務時間で伝えて欲しいと言ってやった」というような内容の呟きだ。年1くらいで定期的に見る内容ではあるがそれを見たときの私の感想は(言っていることは正しいと思うが、そんな自分への風当たりを悪くする立ち回りを初動で取ってやっていけるのだろうか)みたいな感じだったと思う。私はお世辞にも優秀な人間ではない、計画的にやっているわけではないが目上目下同期を問わず何かと他人に詰め寄り、関わり、相互に利益があるような関係を作って人に頼りながらなんとか生きているような人間だ。だからこそ、そのような他人を突っぱねる立ち回りを見るとすごく不安を感じてしまう。結局、その場は(この人は私と違って1人で何でもやれる自信と能力が有る人なのだろう)そのような結論を出してTwitterを閉じた。

同日の夜、古くからの付き合いで適当に集まって駄弁る場所でのんびりしていたら、すでに働いている同い年で仲の良い友人の口からそのツイートの話題が出てきた。私は先程の考えを口にしたところ、友人からは社会人としての意見が出てきた。「確かにそいつの言ってることは間違ってない。余程実力があって1人だけの力で伸し上がれるか、そのままずっとペーペーで働いても良いのならその立ち回りでもいいと思う。でも、定期的に見るそのようなツイートを読む限り出世はしたいという意思が読み取れることが殆どであり、且つ1人で出世が出来るほどの力量を持った人間など一握りしかいない。だから、なんでそのような立ち回りを取ってしまうのだろうかと毎回感じてしまう。お金も欲しいし自分の時間も欲しいと考えるのはわかるがそれが出来ると本当に思っているのだろうか?上に行けば自分の時間なんて減るに決まっているのに」そんな感じの内容だった。それを聞いて私は物凄く複雑な感情が心のなかに渦巻いた。私は食費と趣味費の重要度をどちらも最も上だと考えているくらい趣味をやらないと生きていけない人間だ。食事は取らなければ栄養失調により動けなくなっていくが、私はそれと同レベルで趣味を楽しまないと心が死んで動けなくなっていく。趣味がなければという話だけなら大抵の人間そうだと思うが、おそらく私はその心が死んでくスピードが他人より遥かに早いのだろうと分析している。「ゲーム」「アニメ」「映画」「漫画」そして、「他人との会話」ここらへんが私の心の栄養となっており、私を支えている。だからこそ、私は働き始めたときに「心の栄養を取る時間」と「生きていくために働く時間」の折り合いが付けることができるのだろうか、そういう不安を感じてしまったのだ。今現在、就職のためにあれこれやっているがこればっかりは自分で落とし所を見つけてるしかないだろう。幸い、私には良き友人や仲間と言える人が周りにいると言える状態だ。今まで通り、にっちもさっちもいかなくなる前にその人たちに気晴らしに付き合ってもらったり、相談したりして頼りながら他人に感謝しつつ前に進むしかないだろう。今までもそうやって生きてきたのだから。

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