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私が思う普通について

おはよう、こんにちは、こんばんはkuroです。
今回はタイトル通り自分の中の普通の基準の話をします。
ネットにどっぷりになって早10年弱くらい、
色んな人を見ましたし、色んな人と出会いました。
話してて楽しい人、1ミリも尊敬できない人、純粋に尊敬できる凄い人
面白いけど関わりたくない人、友達になった人、理解のできない人
相互ブロックした人、なんか居なくなってた人、定期的にバカ話する人
面白くないけど参考にはなる人、どこに行きたいのかわからない人
もう二度と会えないだろう人、もう二度と会えない人、ガイジ
そりゃもう本当に色々居ました。
なんでこんな前置きかというと、数年前ふとこんなことを思ったからです。

(なんか自分が思ってるよりまともな基準持ってる人って少なくないか?)

「まともな人」ではなく「まともな基準を持っている人」と書いたのは、必ずしも後者であると感じている人が、人間として出来ている人ではないからです。たとえ、無茶苦茶でも、最低でも、大分特殊な趣味を持っていても、自分の中で「まともな基準を持っている人」は居ます。まあ、「まともな人」は「まともな基準を持っている」を内包してるんですけどね。
んで、次に疑問に思ったのが「少ないのはそういうもんということで片づけるしかないから置いとくとして、人が悪くても許容できる人が居るのは何が違うんだろう」という事。だから考えました、そして、結論が出ました。

敬意なのではないかと。

他人を敬い尊敬する気持ち、最低限のそれを持ってない人を見ると物凄く心がもにょもにょしてしまいます。わかりやすい例で言えば初手からため口の奴とかですね。あれはダメ。無理。
自分も他人と話すときはそいつへの敬意を忘れないようにしたいですね。
逆に言うと、自分は最低限の敬意を持っていれば、割と人間として破綻してている人物であっても別にいいんじゃねって思ってます。
多分、自分もどっか破綻してるんだと思う。

最後に
ジョジョ風に言うと「ナプキンを取れる人」になりたいとまでは言いませんが、納得して前に進めるようになりたいですね。

カリザ君ボコボコでワロタ

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