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なんでも確かめないと気がすまないという性分の有用性。

子供の時分から考えていることが斜め上方向だった自覚はあり、両親や周囲からも扱いにくいとか、普通じゃないとか言われて育った。
世の中の常識から外れているとか、頭のネジがいっているとか、病院行けばアルファベットがつくやつだよとか、色々言われているけど生活には全く問題ない。たぶん働きに出ていたら困っていたと思うけど自営業だから問題ないし、自分がそういうもんだと認めて得意な世界で生きているからいい。

無理をしている人たちを横目に、わたしはわたしのやりたいことをやっているだけにすぎなくて、価値観の合わない人同士がつるむ理由もないし、無理して話をするのも苦痛だなと感じる。
それは逆に、なんでも話を合わせることができて、嫌いな人にでも笑顔を向けることができる人が羨ましいということでもある。いやしかし、自分にはそれができない。

むろんそんなわたしは、集団では生きにくい。みんなの常識コミュニケーションが無理をして人に笑顔を向けて、裏で悪口を言うようなものだとしたら、わたしはそれができないからだ。
顔に出るということではない。自慢じゃないけど面の皮が厚いポーカーフェイスだからライヤーゲームには強い。けれど嘘をつくことよりも探究心という正直な気持ちの方が優先されることが多い。

例えば、人間関係で問題があったらまず本人に確かめればいいと思っている。本人と話をすれば済む話なのに、裏で文句を言っても時間と労力の無駄だと思うし、なぜ非効率なことに聞く側も話を合わせるのが常識なのかよくわからない。

嘘をつく必要がない場面でいちいち本心を隠し取り繕ったような善意を向けられるのも面倒だ。わたしは嘘を見抜いてしまう方だけど、気づかなかったとしてもそのうち話が交錯して面倒になる。社交辞令とか、あまのじゃくも、面倒なので嫌いだ。

ここまでの話、わたしの性格をよくご存知の読者様方ならすでにおわかりだと思うが、わたしとしてはなぜそんなにまで頑なに嫌いなんだろうと思った。その思考の原理を追求した時にあるひとつの仮説を導き出す。

それは「なんでも確かめないと気がすまない」という性分に基づくのではないかということ。

そもそもオカルトや魔術のことだって最初は嘘っぱちだと思っていたことを確かめていてこうなった。今でもまだ確かめきれていないので、目下研究中の身である。

例えば本や、先生から教えられること、聞いた話であっても「自分でやってみないとよくわからない」。つまり理解できないのだ。
算数なんかいい例だ。ゼロがゼロたる意味がわからないし、いまだに棒やおはじきを使わないと計算が困難だったりするが、電卓があるからいいんだよ。レジで現金を支払う時も小銭がわからなくなるので、早く日本もキャッシュレス化しないかなと思っている。
そんなわたしでも経理スキルがあるし、経営で困ったことはない。そもそも計算しないし。

それから、自分の病気を治すためにハーブを勉強していた時、本だけでは「気がすまなくなって」アメリカまで行った。しかもその後も何度か行った。
わたしは英語できると思われているが、わたしの英語は中卒レベルなのでさほどできない。子供の頃からネイティブに慣れていたから聴き取れるけど話せない。そんなレベルだけど、それでも確かめに行くんだよ。確かめることに意義があるから。
(そんなことをやっていたらいつの間にか魔術のことだけはすらすら読み書きできるようになった。日常会話はできない。)

確かめるという価値観だから、海外が遠いとか、お金がかかるとか、言葉が通じないからネックとか、そういう概念がない。イギリスやインドネシアに行くのも、国内の神々に挨拶に行くのも、わたしの中では同じで、遠いとか近いとかの感覚ではなく「気がすむかすまないか」なのである。

ふだんの買い物でも同様である。欲しい・欲しくないではなく、「気がすむかすまないか」なのだ。わたしの中では買わないという選択で気がすまないなら買えばいい、というだけだ。そうすると必要以上のものは買わなくなるし、気がすむことで満足感も得られる。とてもいい。
同じ理由で、日本のマーケットよりも海外のマーケットで直接買って個人輸入するといった買い物も多い。最近ではデンマークから糸を買ったけど、ヨーロッパの糸ほんと綺麗だなとうっとりするばかり。糸の質も使ってみなければわからない=気がすまないのだ。

何かの情報でもそうだ。
日本の本だけでは不十分だとすぐに感じてしまい、結局現地・本場の書物を漁る。最近ではYouTubeがあるのですごく便利になった。これも英語がわからないとかいう尺度ではない。現に、スペイン語がわからないけれどもとりあえず聞いている私がいる(やっとウノ・ドス・トレス・クワトロくらいが聞き取れるようになった)。脚色されていない現地の生感を欲するのだ。

最新のツールでもそうだ。
とにかく自分が使ってみなければわからないという性分だ。使い方がわからないのは最初はみんな同じわけだし、そもそも手探りで知っていく感覚は嫌いじゃない。使ってみてよかったら続ければいいし、悪かったら使わなければいいというだけのこと。

初めて出会う人に対しても、まずどんな人か確かめようと話しかけるタイプだし、異性との付き合いもわりかし好きでなくともどんなもんか確かめたくて付き合うこともあった。確かめて気が済めばそこでおわりなのだが、意気投合すると空気のような存在になるまで付き合うことが多い。

だいたいは確かめれば気が済む。探究心が旺盛ねと言われればそれまでなのだが、逆に確かめないでどう理解するのか。どうしてみんなはゼロの概念を理解できているのか不思議でならない。
とは言え、確かめられないことがあるということもわかっている。ゼロの概念は宇宙のようなもので、人間にはまだ早い亜光速の乗り物なのだろう。特殊性相対性理論がもし実現するようなことがあれば確かめることができるのかもしれない。
もしそうなれば、霊やオカルトや神秘学だって確かめることができるかもしれない。

それまでは、とにかく身近で気がすまないな、と思う時、即調べて旅立ってしまうし、買い物をする。わからないことだらけに挑戦していくことも好きだし、わたしのことを誰も知らない地に行くのも好きだ。日本社会においてこういう性分は有用性がないかもしれないが、わたしはずっと旅をし続けたい。

サポートして頂けたら、魔術研究の支援に使わせて頂きます。皆様により良い情報とデータを開示することで生き生きとした魔女活・魔術ライフになるよう願っています。