盲目少女ニィドに学ぶ必要性。魔女暮らし日記 2.15.2022
世の中には、「必要とされたい」と思っている人が多いのだと、30半ばを過ぎてから知った。
若い年ごろなら、パートナーに対して「必要とされたい」と思うのはわかる。
なんとなく、そんな甘い関係の中から気づきもあるだろうな、と寛大な目で見ることができるし。
むしろ若いカップルを人間観察するのは嫌じゃない。(応援したくなるという意味で)
でも、自分のことを振り返ると「必要とされたい」欲求がまったく皆無だということがわかった。
なぜ、人は、必要とされたいなどと思うのだろうか。
それは、誰かに所有されるようなニュアンスを含んでいる。
「必要だ」と言われることで、「わたしはお前を所有している」という意味になるのだろうか。
そういう少女漫画の設定はありだけど、現実では、わたしは限りなく自由でいたいのだ。(入院すら耐えられないくらいに)
好きな時にどこかへ行きたいし、嫌なことはとことんやりたくない。
そんなわたしは、誰かに必要とされたり、必要とすることを嫌うのだとわかった。自由に動けなくなるから。
漠然と必要とされることで、イコール社会の役に立っていると思う人もいるのだろうか。
わたしはこれも是と思わない。
社会に対していいことをやろうとするとき、誰かから「必要とされる必要」がないからだ。
たとえば、ホッキョクグマのためにプラスチックを減らそうと思うとき、わたしはそれをやりたいからやる。
ホッキョクグマに必要を強要されたわけではないし、もちろん動物愛護団体や、社会などから強要されるわけでもない。
必要とされることが存在意義となる人もいるのだろうか。
存在意義とは主体的であって、他人が関わっている時点でそれは不幸な未来しか見えない。
自分が存在を認めるべきであって、他人が決定権をもつのはまるで戦争のようだ。
「わたしにはあなたが必要なの」と主張されると
「そうなんだ、わたしはそうは思わないけど」と言う。(本当にそう思う)
なぜなら必要なときは一緒にいるし、必要ないのならひとりだって構わない、そもそも関係性を必要かどうかで決めてないし。とわたしは言う。
すると「そんな!ひどい!わたしのことが必要じゃないなら一緒にいる意味ないし!」等と言われたことがある。
わたしはどうぞ勝手に、と思うのだがよく考えるとこの主張は矛盾しているとも思う。
その主張のための「わたしという存在」は、必要じゃないよね。と。
とにかく、「必要性」というのはあくまでも自分の中にあって、他人に委ねるものではないって話。
ルーンの「ニィド」もそう言ってる。
私のルーン占いのメニューができた。
今年は出し惜しみせず技術をアウトプットした方がいいというマンデン占星術の教えもあり
ずっと先生業のほうに力を入れていたタロット占いのメニューも復活した。
これは、わたしのことを必要としてほしいからとか、占いがその人に必要だからとか、そういう動機でやるのではない。
必要性を、評価というかたちで他に委ねるべきではない。
わたしが、やりたいからやる。
必要性の価値は、各々が計ればよいとすら思う。
ニィドは必要性を表すルーン文字で、タロットカードの悪魔のカードと関連性があるが、
わたしのルーン占い(島のケルト)では、盲目の少女の予言者だ。
その美徳は「沈黙」で、すべてを知る必要がなく、すべてを必要としなくてもいいことを教える。
占いの中でニィドがでれば、「あなたに答えは必要ではない」ということだ。
わっかりやすく言うと「考えるな!感じろ!」である。
つまるところ必要に執着しているうちは(=タロットカードの悪魔の状態であるが)、本当に必要なものも不必要なものも見えなくて、盲目少女のように目を失ってはじめてわかることなのかもしれない。
あるいは必要性というものは、「洞察」するものであり、故意的に与えたり与えられたりするものではないってこと。
深いね~。
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