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海のなか(2)


第二章   嵐の日には  

わたしが浜辺で発見されたその日から予報外れに天気が崩れ、退院し学校に行く頃には嵐が街を襲った。陸に帰ってきてからずっと、とめどない雨音がBGMのように耳元で囁いている。
雨は好きだった。雨は満たしてくれる。何も考えず、ただ雨を感じることだけにすべての感覚を使う。よく雨が降っている日には、窓を開けたままにして外を眺めていた。その方が雨のすべてを受け取ることができるから。肌に纏う湿り気。水が弾ける音。どこかで雷が重たい音を鳴らしている。すべての事柄から無関係に、小さな雨粒が誰も気がつかない暴力のようにわたしを侵食してゆく。この感覚に身を浸す時はとても贅沢な気分になった。なぜかはよくわからないけれど。
  登校し始めて三日目の日は特に重たい雨が降った。台風が急接近したせいだ。その日も窓から水浸しの校庭を眺めていた。わたしの席は窓際の一番後ろにある。連日の雨で、グラウンドは巨大な一つの水溜りのようになっていた。海から帰ってきてから、自分がどこかおかしくなっているのに気がついていた。雨を見つめても、あの恍惚が降りてこない。代わりに幾度も過ぎるものがあった。青のことだ。濃い雨の匂いは海を連想させた。暗い海に満ちた、恐れと背中合わせの深い安堵。もう一度あの不思議な少年に会いたかった。会えばきっと、何かが手に入るはずだった。
 そんな風に青のことを考えていると、左足の痣が疼く気がした。今のところ痣が薄くなる兆しはなかった。濃くなることもないが、なくなることもない。やはり、この痣はあの手に掴まれた跡なのだろうか。痣は丁度人の手のような形をしていた。毎日毎日痣の形を指先で辿った。痣を見るたび溺れた時の恐怖が甦り、体が震えるのにやめられない。痺れるような恐れと快楽の虜になっている間は他のことを考える隙すらない。その時間だけは完璧な充足まであと一歩だった。机の下にある左足にまた目をやる。もう痣を確認したくてたまらなかった。休み時間の教室は騒がしい。休みがちな目立たない女子の存在など、完全に意識の外だ。暗示をかけようとするひそやかな声が唆す。いけないことをする時のように胸が高まった。ひとつ息を吐き出すと、そっと机の下に手を伸ばして黒いプリーツを持ち上げる。少しずつ白い肌が露わになっていく。ああ。もう見える、と思ったその時、校内放送がかかった。わたしは慌ててスカートから手を離して膝の上に戻す。途中、手を机にしたたかぶつけて机が派手な音を立てた。それに被せるように古いスピーカーから濁った音声が流れはじめた。
『現在、大雨洪水警報が発令されました。本日は四時間目までで一斉下校とします。生徒のみなさんは速やかに各自の教室に戻り、帰り支度に取り掛かってください。繰り返します・・・』
  放送を聞いた途端、クラスメイトたちが一気に沸き立つ。やはりこちらを見ている人はいなかった。わたしは今、はじめて秘密を持っているのだ。
  帰りの会が始まるまで、あと十分はかかりそうだった。帰りの会の開始を待たずに下校することにした。とてもこのままではいられそうにない。体の奥の火照りはまだ治らなかった。そっと息を凝らして教室を後にした。やはり、わたしに気がつく人は誰もいなかった。  


***  

わたしの通学路は船着場横の遊歩道を通るようにできている。嵐の日には海に近づいてはいけない。海辺の町に住む者にとっては当然の事だった。わたしは目の前でうねる波を見つめる。わかっていたはずなのに、気がつくと船着場に立っていた。わたしはどうやら、とてつもなく渇いているようだった。飢えと渇きの区別がつかない。鳴り止まないサイレンのような雨音が傘の向こう側から聞こえる。雨の音以外は何も聞こえなかった。目の前の光景が無声映画のようだ。深呼吸すると湿った潮の香りが全身を巡った。それだけで鳥肌の立つような感覚が背筋を走る。わたしのどこかが目覚めようとしていた。あと足りないのは、音だけ。傘は水の重さを乗せた分だけ重くなっていく。雨がわたしを押し込めようとしている。何かが喉の奥からせり上がってくる。わたしははき出すぎりぎりでそれを呑み込むと、また一歩海の縁へと足を踏み出す。後押しするようにひときわ強い風吹き抜けていった。すると、あれほど堅く握っていたはずの傘が手からするりとこぼれ落ちた。瞬間、顔に容赦無く豪雨が叩きつけた。まるで弾丸のようだ。わたしは咄嗟に目をかたく瞑り、両腕で顔を庇う。また、痛いほど強く嵐が吹き荒れる。それと同時にさっきとは比べものにならないほど濃密な海の匂いがわたしを覆った。与えられた衝撃に思わず目を見開くと、目の前で大波が押し寄せて砕けた。怪物のように襲いかかる気配を全身で受け止めながら、身震いする。瞬きする隙さえ惜しかった。今眼前にある全てをもっと深く、強く、刻み込みたかった。不意に、口に生臭い味が広がる。ああ、わたしはこの味を知っている。あの日溺れる寸前に味わった喉を焼く海の味。

「あお」
 口が動く。
「青」
 彼の名にあわせて、波はどんどん高くなる。嵐はもうわたし自身だった。一歩ずつ海へと近づいていく。危うい予感に痺れるような快感を覚える。あと一歩、あと一歩と誰かが急かすように囃し立てる。また、喉を破るようにして叫ぶ。
「青!」
 またわたしは堕ちていく。あの場所まで。青の待つ海の底まで。あと一歩踏み出せば、そこはもう海の中だった。最期の瞬間、何かが邪魔をした。誰かが強い力で左手を摑んでいる。そのまま力任せに後退させられると、ドスンとぶつかった。背中から他人の体温が染みこんでくる。黒い学生服の向こう側では心臓が跳ねていた。気がつくと、頭上には傘が差し出されている。再び雨の音が戻ってきて耳を塞いだ。反射的に強く手を振り払った。早くしないと奪われる。あの素晴らしいもの全て。
 「夕凪」
 その時、耳元で低い声がした。また、手を摑まれる。今度は振り払うことができないほど強く。はっとして顔を上げると、そこにいたのは陵だった。雨音の中で陵の声だけがはっきり聞こえる。幼なじみの顔は傘の影になってよく見えない。黒い傘から染み出した闇が陵の顔を隠していた。彼がまた名前を呼ぶ。
「夕凪、帰ろう」
 その瞬間、体中の熱が一気に冷めていくのを感じた。その代わりに陵の触れているところだけが脈打つように痛んだ。彼の手は熱かった。 身体はいつの間にか感覚を失う寸前まで凍えていたようだった。雨水が身体から滴るたび、心は冷めていき、耳の中の雨音はますます大きくなっていった。あの熱の名残をなんとか手繰り寄せようとする。あんなにも圧倒的で素晴らしかったのに。こんなにもあっけない。喪失感に心が追い付かない。もう一度支配して欲しい。そうしたら、今度は完璧に手に入れてみせるのに。
 するとその時、左手を摑む手に更に力が込められた。骨の軋む鈍い痛みが走った。
「痛っ」
 声を漏らすと、陵は驚いたように手を離した。肌はうっすらと赤くなっていた。手が離れたあともまだ、熱く痺れている。それを見た陵は沈んだ声で
「・・・・・・ごめん」
  と言い、それからまた「帰ろう」と促してわたしの傘をこちらにさしかけた。燻っていたはずの熱はもうすっかり冷めていた。
 帰り道、陵は何も話さなかった。ただ淡々と歩き続けるだけだった。もっとも、そのほうが好都合だった。全身に満ちる雨の気配を感じながら歩きたかったから。けれど、頭の片隅はどこまでも冷えていた。こんなものはただの代わりにしかならない。自分にまとわりついた海の生臭さが一層思いを煽るようだった。いま波打ち際に自分が立っていないことがひどく不自然に思えた。入り込む隙のないほどの執着の中で、右手の熱だけが例外だった。随分と長い間陵の残した温度を溶かすように味わっていた。掴まれた手首の赤みはとうに失せ、感覚すら遠い。感覚を手繰っていくと、幸福と虚無を心を揺さぶり、捩じ切れるようだった。陵が何処に帰って行くのか分からなかった。けれど不思議と怖くはなかった。ただ、彼の横を覚束ない足取りで歩いた。これから帰るのが、わたしの家でも陵の家でもそれ以外でも同じことだった。特別な場所は海の他になかった。全身が激しい雨に濡れ、衣服が貼り付いていた。それでも不快だとは思わなかった。むしろ好ましかった。水に浸っている方が、海を感じられたから。それだけを慰めに欲求から遠ざかっていった。
 陵は家まで送ってくれた。玄関に入っていくとき、何か言わなくてはならないことがある気がした。けれど結局それが何なのかわかるよりはやく、ドアが閉じる音がした。ドアに背中を預けて自分が海岸で見つけられたときのことをふと想像する。あの時も今のように海を纏っていたはずだった。また潮の香りを吸い込んで、海に棲む少年の名をもう一度そっと口にした。吐く息は熱く、湿っていた。  

***  

 教室の隅からがたん、と音がした。騒がしい教室の中でその音だけが特別耳に響いた。何気なく音のした方向を振り向くと、一番後ろの席に目がいった。夕凪が珍しく表情を崩して左手をさすっている。夕凪に無表情の仮面を脱がせたのは一体何だったのか。俺には想像もつかない。
「おい、陵?」と呼びかけられて長谷川の方へと向き直るが、正直話なんか耳に入らなかった。夕凪のせいだ。失踪したあの日からあの子はやたらと俺の意識に入り込んできた。
   教室内は今しがたあった校内放送のせいで騒々しい。今日は台風の影響で半日休みになるらしい。俺は夕凪を乱したのがこの放送ならいい、とほとんど無自覚に考える。彼女が表情を乱したところをほとんど見たことがない。十年来の付き合いにもかかわらず、俺たちの関わりは希薄といってよかった。きっとクラスの大半のやつは俺と夕凪が幼馴染であることすら知りもしないだろう。夕凪は決して自分から関わりを求めない。その態度が俺には周り全てを拒絶しているように思えてならない。俺はいつの間にか彼女に容易く話しかけられなくなっていた。
  ふたたび視線を夕凪に戻すと、もう彼女は席にいなかった。俺は慌てて教室を見回す。すると、後ろのドアに夕凪の色素の薄い髪を見つけた。思わずあっと声が漏れた。彼女の背中は一瞬見えただけで瞬く間にドアの向こうへ消えてしまう。垣間見た夕凪の肩にはネイビーの通学鞄が掛かっていた。彼女はこのまま帰る気なのだ。それを悟るやいなや、気がつくと俺は自分のバックを摑んで廊下へ飛び出していた。一目散に下駄箱へ向かうと夕凪が傘を差して校門へと歩いて行くのが見えた。夕凪の足取りはふわふわと心許ない。夢の中を歩行しているような歩き方だった。歩いているのにまるで地面の存在を感じさせない。そんな後ろ姿を見た瞬間、大きく心臓が脈打った。それはずっと俺が見たかった後ろ姿に違いなかった。夕凪が隠しているすべてがその光景に凝縮されていた。心が叫んでいる。何かが俺の中に潜んでいた。
  夕凪の後をつけていくと、通学路沿いにある船着き場にたどり着いた。嵐の日は海がひときわ強烈だ。薙ぎ払うような激しい風と共に海の濃密な気配が襲う。気が付くと足がすくんでいた。生まれてからずっとこの町に住んできたのに。海の暴力をここまで感じたことはなかった。この嵐の中心でとてつもない力が渦巻き、生と死という相反する二つを生み出していた。
   幼馴染の後ろ姿に目を凝らす。夕凪はしばらくの間、ただ佇んでいた。雨の日の静寂は重い。俺は我知らずふるえていた。息の詰まる静止に何も考えられなくなった頃、一際強い風が吹いた。同時に夕凪の手から赤い傘が舞い上がった。俺はとっさに隠れていた物陰から飛び出し、コンクリートの上を転がる傘を捕まえた。体勢を立て直して持ち主の名前を口にしようとしたが、できなかった。その瞬間に夕凪が叫んだからだ。何度も何度も叫んだ。絞り出すような声が空間を貫く。決して大きな声ではないのに、圧倒的な質量を持って耳に響いた。夕凪は俺とほぼ横並びの位置にいた。あと何歩か歩けば手が触れそうなほど近く。だが、夕凪は俺に気が付くそぶりも見せず海に向かって叫んでいた。そして俺もまた姿を再び隠すこともせずじっとその場に立ち竦んでいた。動けなかった。自分の目を疑った。この少女を俺は本当に知っているのか?その姿はぞっとするほど美しかった。髪の毛の一本一本がまるで意思を持つように暴れる。彼女は間違いなくこの嵐の一部だった。彼女が身動きするたび、グロテスクなほどの肉感が雨粒とともにまき散らされ、濃厚な後味を残していた。いつものひっそりとした影の薄い面影が瞬く間に消え失せてゆく。
   夕凪は一つ叫ぶたびに一つ海へと足を踏み出した。最初の頃は何と言っているのかわからなかったが、そのうち「あお」だとわかった。「あお」が何なのか俺には全く分からない。それでもぞっとした。ここまで一人の人間を変えてしまう何か。そんなものに今まで一度でも俺は出会ったことがない。夕凪は熱に侵されたような表情を浮かべている。その瞳は何かに焦がれる者の目だった。それが分かった瞬間腹の底が冷えた。また夕凪はいなくなる。今度は俺の目の前で。
   気がつくと夕凪はコンクリートの淵に立っていた。俺が駆け寄って彼女の腕を引くのと、夕凪が最後の一歩を踏み出すのはほぼ同時だった。耳の奥から狂った激しい鼓動が聞こえる。強く掴んだせいでよろめいた夕凪が俺にぶつかる。身体は凍るように冷えていた。傘を夕凪の上へとさしかける。
「夕凪」
 口にした瞬間、強い力で手が振り払われる。夕凪は飢えた獣のようにまた海へと手を伸ばした。「あお」彼女の口がまた動こうとしている。もうこれ以上聞きたくなかった。その言葉は夕凪がかけた呪いのように感じられた。夕凪の腕を握る。手加減する余裕などなかった。小さな叫びが口から洩れる。
「夕凪」
 手の中の腕がびくっと震え、夕凪はようやく俺を見た。まるで濁ったガラス玉のようだった。その眼は現世を映してはいるが、決して見てはいない。主がこの場にいないから。
「帰ろう、夕凪」
  俺は恐ろしさにますます強く握った。少しでも手の中にあるものを確かに感じていたかった。
「痛っ」
 小さな声で我に返った。夕凪が痛みに顔を歪めていた。悪い夢から醒めたような気分だった。けれどその一瞬のちにさっきまでの光景が夢でないことが分かった。あんなもの、見たくなかった。俺はいつの間にか後悔しているようだった。そっと腕を離す。
「ごめん……」
   謝りながらまた赤い傘を差しだした。夕凪の目を見ることができない。傘で遮った向こう側にいるのは得体のしれない何かだ。血が沸騰していたはずが、いまでは冷たさが滲んでいた。寒さに震えがきた。何かが怖かった。けれど自分が何を恐怖しているのかわからなくて、それが余計に恐ろしかった。
  やっと「帰ろう」と口にすると、彼女に背を向けた。黙ってついてくる気配を感じながら、恐ろしさと同時に虚しさも感じていた。夕凪が今ここにいるという実感がまるでわかない。俺と彼女の間には堅いガラスの壁が仕込まれている。俺の手はいくら伸ばそうが夕凪に届かない。それでも、夕凪の心がここにないということくらいは分かった。俺では彼女の魂に触れられない。
   雨が降っていてよかったと思った。雨音が沈黙をうめてくれる。ふと、考えてみる。あの時夕凪の腕を掴まなかったなら。俺はこんな感情に歪まずに済んだのだろうか。問いは現れてすぐに無意味になる。あの選択以外なかった。また同じ場面に出会ったところで、同じように行動するに違いない。いくら考えようが無駄だった。この問答は袋小路にある底なし沼に似ている。
   もう夕凪の家の前に差し掛かろうとしていた。俺の足は夕凪の家に近づくにつれ、重くなる。何か夕凪に言わなければ思った。けれど開けた口からは、何も出てこない。夕凪はどんどん遠ざかっていく。なんでもいい。彼女を少しでも長く引き留める術が必要だった。
「夕凪」
  振り向いた夕凪の顔は傘で半分以上隠れてよく見えない。
「なんであんなところにいたんだ。危ないだろ」
  口にした瞬間、本当に聞きたかったのはこれではないと分かった。けれど今更どうすることもできない。
「青に会うため」
  予想もしなかった夕凪の答えに、俺は二の句も継げない。訳が分からない。 夕凪が姿を消した後も、立ち尽くしたままだった。そうしてひたすら、呪われたように「あお」という不気味な響きをただいつまでも噛みしめていた。  

***  

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