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オレは発達障害グレーゾーンなのだろうか?4・グレーゾーンの概念を誤解されることを一番恐れているのかもしれない

こんにちは。
ここから先、どうしても書きだすとごちゃごちゃした文章になってしまって困っています。
ただ受診前に書いておきたいと無理矢理な理由をつけて公開します。笑
なにが言いたいのか分かりづらくてごめんなさい。先に謝っておきます。


なぜはじめから記事のタイトルを発達障害「グレーゾーン」としたのかについて話します。
それは、初めに読んだ本が発達障害グレーゾーンの本だったから、という身も蓋もない理由です。
いや、その本を読んだことでグレーゾーンの概念の方が自分にしっくり来てしまったと言った方が正確かもしれない。
加えて突発的で思い込みの激しい性格のせいです。

なんにせよ、今ではこの記事のタイトルはよくなかったな、と後悔しています。
はじめからあえて「グレーゾーン」と範囲を狭めて書き始めたのは、少し考えればあまりよくないとわかる。
でも疑いだして初めのうちは、自分がストレートに発達障害かもしれないと口に出すことに少なからず抵抗感があったんです。
その抵抗感には、自分ごときが発達障害と言いきってしまうのはおこがましいんじゃないか?という感情も多分に含まれていました。

病院に行って医師の診断を受けてから書けば問題はなかったはず。
でもせっかちで衝動的な性格の私はそれまで我慢できない。
結果グレーゾーンという用語で濁すような形を取ってしまった。
上にも書きましたが、これはよくなかった。

とはいえ長く書き進めてしまったし、せっかくなのでグレーゾーンの話をメインでしていこうと思います。
特に診断が出るまでは新しく書けることも限られてきますからね。


実はグレーゾーンという概念について、えらく長い下書きが溜まっているのです。
でも考えがまとまっているわけでもないし、その時その時で考えながら書き進めたので、いまいちすっきりと書ききることができませんでした。
だからここから書くことはひとつの妄想くらいに捉えて読んでもらえるとありがたいです。
そして、グレーゾーンについての知識は全て以下の本から得たものです。

(2度目のリンクですが、ここにも非商用リンクだと記しておきます)

そもそもはじめに「グレーゾーン」の本を読んだこと自体が悪手だったと、今では考えています。
同時に届いた純粋な発達障害の本もあったのです。でも知識の乏しい人間にはグレーゾーンの本の方が読みやすく感じたのでした。そして実際に読みやすかった。

しかし問題は、両者の本の中でいくらか言葉の定義に違いが見られることでした。
具体的に言うと、グレーゾーンという概念や、大人の発達障害、擬似ADHDなど。
この辺は捉えかたの変化が激しくて、研究者や医師の中でもまだ理解に個人差があるのではないかと感じました。
複数の本などを読んでも、このあたりの捉え方はなんとなく一致しない気がします。

話を戻すと、本を読みたての私は頭のどこかで自分はせいぜいグレーゾーンに違いないという思い込みがあった。
今になってみれば、その思い込みから全てが衝動的に動き出したのかもしれないとも思う。
そしてこの本を読むと実に、その思い込みに拍車がかかるのです。

今の私は、病院で定型発達だと言い切られてしまうことに恐怖を感じています。
ここ何ヶ月か、自分の発達障害を疑い出してからずっと、勝手に確信して、ほとんどそうに違いないと思い込んで生きてきました。
そしてこの本を読み、なるほどグレーゾーンという概念があるということを知りました。
それまでは白か黒かだと思っていましたから。

そして読んでみると本の中では、障害の人よりもグレーゾーンの人の方が苦しんでいることがあるとすら書かれている。

これは、誤解を恐れずに言うならば、今の自分のような状況の人間からすると、とても魅力的な言葉に映ります。
というのは、今現在の私はこれまで自分の人生の苦労を「発達障害」ないし「発達障害グレーゾーン」に当てはめることで納得しようとしている状態です。
前回の記事で列挙したように、私は様々な厄介な自分の特性を抱えて生きてきました。
今までの人生で、私はその特性をずっと自分のパーソナリティとして受け入れるしかなかったわけですが、発達障害の疑いを持ってからは、いやいや実はあなたのその悩みは病気のせいかもしれないですよ、と怪しいセールスマンに吹き込まれたような状況なのです。
そうだったのか。オレ自身が悪いわけじゃなかったのか。
という心理が働きます。
青天の霹靂です。
そこでさらにセールスマンは呟くのです。
「グレーゾーンという範囲でよければ、もっと診断される可能性は高まりますよ」と。
そうすると、勝手に自分がグレーゾーンなんだと思い込みはじめる心理が働き出すのです。

私と同じような心理状態の人は結構いるのではないでしょうか。
診断が仮に発達障害ではなくグレーゾーンであっても、それでいくらかは救われる人間というのは存在すると思っています。
このように病気であることを求める心理にとって、「発達障害グレーゾーン」というカテゴリーは魅力的にすら映るのです。

でもそれはひとつ間違えれば危険なことだなと思っています。
医師にとっても、受診する人にとっても。
私が長々と今まで下書きに書き溜めてきたのも、この点についてなのです。
この、病気の診断を求める心というのはとても厄介で、しかし無視できない問題なのではないかとずっと考えているのです。
でも、実際に発達障害の人からするとこのような心理は、いやいや馬鹿にするんじゃないよ、というような悪感情を抱かせてしまう危険がある。
そんなとても難しい問題なので、とりあえず今回は別のことを書きます。
一旦棚上げします。
だからと言ってどうでもいいことを書くわけではありません。
それはグレーゾーンを語る上ではっきりとしておかなければならない点です。
いわばグレーゾーンの定義の問題です。


私がこの本を読んでまず頭に入れないといけないと思った概念があります。
それは、グレーゾーンというのは単なる障害未満の状態ではなく、障害とは異なる状態なのだ、ということです。
もう少し付け足すと、グレーゾーンの辛さは障害の人の辛さとはまた別のもので、各々に別の問題を抱えている。
これははっきりとこの本にも書かれています。
病気の状態としては単なる強度の問題であるのに、それが一定のラインを超えるかどうかで別々の病名に区分される。それが発達障害とそのグレーゾーンなのだと、今では捉えています。
この前提が無いと、安易にグレーゾーンについて語ることすら難しくなるような気がする。

上記の考えの詳細についてはさすがに本を読んでくださいとなるのだけど、簡単に言えば発達障害グレーゾーンという、発達障害の亜種のような病気があると考えた方が分かりやすいかもしれません。
それが医学的に正しいかどうかはわかりません。完全に私なりの解釈です。

なぜそんなに定義を重要視するのか。
仮に私がグレーゾーンと診断されたとしても、それはファッション発達障害を意味する言葉ではないとハッキリ自分の中で言いきれないことには、私は恐ろしいのです。
だって、定型発達の人たちからしたら「結局は発達障害じゃないんなら自分で解決しなよ」と言われかねないし、発達障害の人たちからすると、いやあなたと私の辛さを同じものだと考えないで、ということになる。
どちらかというと、発達障害の人に冷ややかに見られることを私は恐れています。
だから、それぞれが別の問題を抱えているという前提がないと、なにも書けなくなってしまう。
言葉が説得力を失ってしまう。
だとしたら、障害未満の人間は口を閉ざすしかなくなる。

それがなによりも恐ろしいのです。

だからこの話の結論的なことを言うと、もし自分が発達障害グレーゾーンであるならば、この本の中のグレーゾーンの定義は合っていてほしい。なぜなら、発達障害とそのグレーゾーンをある程度別のものだと捉えることができないと、発達障害の人に対して発する言葉すら失ってしまうから、となるでしょうか。
なんかあえて分かりづらく書いてるみたいな気がしますが、これが今の私の限界なのです。苦笑


とまあ、こんなふうに重苦しく書いてはいるのですが、現実的に見れば現在の私はまだ医師の診察すら受けていません。
だから実際はどんな診断だってありえる。
しっかり発達障害と言われる可能性もあれば、完全に定型発達だと言い切られる可能性だってある。
馬鹿みたいに自分がグレーゾーンだという妄想を抱きながら過ごすこともないのだけど、でも一度思い込むとなかなか手のつけられない自分の性格なので、いくら誤魔化そうとしても心から納得できないことにはどうしようもないのです。

でもようやく、そのモヤモヤから解放されるのもそう遠くはなくなってきました。
診察を受ける日が迫ってますから。
できれば診察前にもう少し書きたいのだけど、書けるかどうか。

うーん、何度書いてみてもうまく書けない。
今ひとつ主張が見えない文章ですみません。
ひとつ言えるのは、自分が発達障害グレーゾーンだと思い込んでいる人間が書いたと思っていただければ、少しは言いたいことが腑に落ちるのではないかと思います。

そして自分がグレーゾーンだという妄想を抱きながら何ヶ月か過ごした人間の苦悩を書き留めておいたら少しは面白いのではないかとの思いから、受診前に言いたいことは言っておこうと急いでこのように必死に書いているのです。笑

また次回、がんばります。

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