見出し画像

脱線 14

6(承前)

「ん? どうした?」
「ううん。なんでもない。それより事件の話。さっきは雅史の前だったから、本当のことを言えなかったけど……」
「僕もそのことが訊きたかったんだよ。裕太が充に殴りかかったという話を雅史君がしたとき、君はなにか言おうとして口ごもったもんな。あのとき、なにを話そうとしたんだい?」
 紀男は僕を上目づかいに見たあと、覚悟を決めたように息を吸って口を開いた。
「あのね。裕太は充を殴ろうとしたんじゃない。裕太を怒らせたのは雅史なんだ。裕太はかっとなって、雅史に殴りかかっていったんだよ。充はそれを止めようとして、怪我をしちゃったんだ」
「喧嘩の原因はなに?」
「雅史が裕太をからかったんだ。裕太のお母さんが若い男の人とデートをしているところを目撃したって。そういうのを……なに? イン……インランっていうんだって……」
 雅史の言いそうなことだ。
「言いたいことはそれだけ?」
「え?」
 紀男は目を大きく見開き、僕を見た。
「放火事件についても、なにか知っているんじゃないのか?」
「どうして? どうしてそれが分かるの?」
 僕は笑って、彼の頭を撫でて笑った。
「君が正直だからだよ」
「……あのね、昨日、その喧嘩が起こる前の話なんだけれども、僕、聞いちゃったんだ。充と裕太が内緒で立ち話をしているところを。充、家で飼ってる犬が逃げ出しちゃってね、夜中に探し回っていたんだって。そのときに偶然、放火の現場を目撃したって……そう裕太に話していたんだよ。充の口振りだと、犯人が誰かを知っているのに、それを隠している――そんな感じだった」
「その話を聞いて、裕太はなんて言ってた?」
「別に。ドラマみたいだなって笑っていただけだったけど……。でも僕、これはマッチョ――あ、担任の先生に話しておいた方がいいかなって思って、すぐににそのことを伝えたんだ」
 僕は笑った。どうやらマッチョはすでに、あだ名として定着しているらしい。
「先生はなんだって?」
「あとで充と話をするって言っていたけど……」
「ありがとう。よく分かったよ」
 僕は立ち上がると、もう一度紀男の頭を撫で、それから彼の母親に頭を下げた。
「そうそう。君は雅史君と仲がいいの?」
「うん。ちょっとひねくれたところもあるんだけど、でもいい奴なんだよ」
「直した方がいいんじゃないかって思うことがあったら、はっきり言ってやった方がいいよ。友達ならそうするべきだと思う」
 僕はそう言い残して、紀男の前を去った。
「分かった!」
 後ろで、元気な紀男の声が聞こえた。
 車に乗り込み、エンジンをかける。なにげなく後部座席に目をやると、赤いポーチが転がっていた。運転席からは死角となる場所に落ちていたため、今まで気づけなかったのだろう。
 赤居美紀の忘れ物に違いない。彼女を送り届けた警察署に持っていくべきだろうか、それとも彼女の自宅まで届けてやるべきだろうか。
 僕はポーチを拾い上げ、中を覗いた。もし、彼女の住所が分かるなら、自宅まで届けてやろうと考えたのだ。
 ポーチを開くと、内側に中身が透けて見えるポケットがついていて、ちょっとした小物が入るようになっていた。
「これ……」
 愕然とする。そこには一冊の手帳が入っていた。
「どういうことだ?」
 もしかしたら彼女のポーチではないのかもとも考えたが、ポーチの中には、病院で僕が拾ったにおいとりスプレーも入っている。免許証も奥底にあり、そこには間違いなく彼女の顔と名前が刻まれていた。
 僕はポケットの中の帳を見て、事件の真相にようやく辿り着いた。いや、分からないことも幾つかあったのだが、それには目をつむることにした。僕は警察の人間でもなければ、名探偵でもない。
 手帳の表紙には「母子手帳」と記されていた。彼女は妊娠四ヶ月だった。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?