海が見たくなる季節 9
5(承前)
「由利さん……」
起き上がろうとしたが、体中のカが抜けてしまったようでどうするこ
ともできない。
「まだ起きちゃ駄目よ。幹成さんはここで休んでいて」
由利さんは僕の肩にやさしく触れた。
「話?」
「そう。あなたのお母さんに話があるの」
由利さんはそう答えると、力強く立ちあがった。
由利さんの姿を見て、息をのむ。旅館で出会ったときのかわいらしい面影はどこにもない。彼女はとても勇ましく、そしてたくましかった。
由利さんは海に顔を向けた。とたんに波が激しくなり、しぶきが僕の頬を濡らす。
「あなたは間違っているわ」
有無を言わさぬ強い口調で、由利さんは叫んだ。その言葉に反応するかのように、波は一段と激しくなった。
――私が間違っている? なぜ?
ママの――海の声が聞こえた。
――この子は苦しんでいるのよ。歯車になれずに弾き出されてしまった世界から、必死で逃げ出そうとしているの。それを手助けしてなにが悪いの?
「苦しむのは仕方のないこと。理不尽な事態に直面したとしても、そこから逃げていたらなにも変わらない。耐えなくてはならないのよ!」
――この子は耐えていけないわ。
「甘やかしては駄目。たとえ途中で挫折したとしても、それがこの子の糧になる。だから……私たちはただ見守ることしかできない。そうでしょう?」
――それであなたはつらくないの? 私たちの……この子は私たちの……
「あなたがなにを言っても無駄よ! 早く立ち去りなさい!」
由利さんの声を最後に、しばらくの間沈黙が続いた。
波の音も聞こえてくることはなかった。
――坊や。
静かに海が僕を呼んだ。
――生きるのよ、坊や。ね、いい子だから。
「ママ」
――がんばってね坊や……坊や……。
海の声が徐々に小さくなってく。
そして再び、沈黙が訪れた。
つづく
※読みやすくするため、原文に多少の修正を加えております。
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