あとがきのあとがき『家族パズル』
小学三年生くらいのときだったと思う。母親と大喧嘩をした。「あんたみたいな子はいらない。家から出て行け」と母は怒鳴った。売り言葉に買い言葉、「じゃあ出てってやるよ」と僕は泣きながら自宅を飛び出した。母が憎くて仕方なかった。あんな奴は死んじゃえばいいのに、とさえ思った。「待ちなさい!」――母の声が背後から届く。振り返った僕は母の姿を見て動きを止めた。一気に怒りが冷めていく。母の愛情をひしひしと感じ、自分の愚かさを思い知った。喧嘩の原因がなんだったのか、そのあとどうやって母に謝ったのか、そのあたりのことはなにひとつ覚えていないが、あのときの母の姿だけは四十年経った今でも脳裏に焼きついたままだ。家を飛び出した僕が振り返ってなにを目にしたかは、最新刊『家族パズル』を読めばわかる。
仕事を辞めて実家に戻ってきたのは二十六歳の秋。父が急死して間もない頃だった。三十歳までには夢を叶えるからと宣言した僕を、母はしぶしぶ許してくれた。「作家なんてなれるわけがない。いい加減、現実を見つめたらどう?」と僕の前では決まって雑言を並べ立てた母が、「うちの息子の作品が、新人賞の二次予選を通過した」と友人や親戚に嬉しそうに語っていたことを僕は知っている。ギリギリ三十歳でデビューが決まり、初めての本が自宅に届いたときには、まるで時間が止まったみたいにいつまでもいつまでも本の表紙を眺めていた。僕はその姿を襖の隙間からこっそり見つめ続けた。「なにこの本、くだらない」――相変わらずの憎まれ口にもまったく腹は立たなかった。
『ウェディング・ドレス』でメフィスト賞を受賞したのは二〇〇〇年六月のこと。まもなく作家生活二十周年を迎える。コミック原作なども含めれば、『家族パズル』はちょうど五十冊目の著作だ。これまで数多くの作品を書いてきたが、雑誌掲載された短編が一冊にまとまるのは、実は初めての経験だったりする。
母も今年で八十五歳。最近は物忘れもひどくなってきた。以前は、僕の新しい本が自宅に届いたら真っ先に目を通してくれていたが、最近は書庫に積みあがったままである。『家族パズル』に収録された短編の大半は十年以上前に書かれたものだ。諸々の事情で本になるまで少々時間がかかってしまった。小学生時代の出来事をヒントに描いた短編が雑誌に掲載されたとき、母はその作品をとても気に入ってくれた。自分がモデルだと気づいていたかどうかはよくわからない。「一冊の本にまとまったらまた読みたい」と話していたので、ずいぶんと遅くなってしまったが、今度実家に寄ったら直接手渡してみたいと思う。「どうせまたくだらない話なんでしょう」と母は罵倒するに違いない。だから、襖の隙間からこっそり様子をうかがうことにしよう。今の母にはもう、本一冊を読み通す力はない。だけど、二十年前のあのときみたいに嬉しそうに表紙を眺める姿を見られれば、僕はそれで満足である。
〈メフィスト〉2019年Vol.3 掲載
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