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裁判員制度について考える

 いきなり季節はずれな話題で申し訳ないが、作家業の傍ら、冬になると子供たちにスキーを教えている。
 子供たちの上達の早さにはいつも驚かされるが、それでもやはり個人差はあるようで、何人もの子供を同時に教えていると、次第に技術力に差が生じ始める。そのため、なだらかな初級者コースから急斜面のある中級者コースへと移動するタイミングは判断が難しい。
 たとえば、こんなことがあった。
 受講生五人のうち、四人は中級者コースへ出かけてもなんら問題ないレベルだったが、身体の小さいA君だけは、足もとがふらつき何度も転倒を繰り返す。
 このまま頂上へ移動すれば、苦労するのは目に見えていた。
 無理をさせ怪我でも負わせたら大変だ。
 とはいえ、ほかの四人はもはや緩斜面では物足りない様子。「早くてっぺんに行こうよ」と僕を急かす。
 ためらっていると、「Aが下手くそだからダメなの?」とリーダー格のB君が口をとがらせた。
 なんて無神経な奴だと最初は腹を立てたが、そのあと彼は、A君が決して弱音を吐かない頑張り屋であることを主張。さらに、A君が転んだらみんなで助けるから心配ない、とも訴えた。
 できることなら、僕も頂上からの素晴らしい景色をみんなに見せてやりたい。しかし、今のA君の技術レベルではやはり難しいと判断し、頂上付近のコースがどれだけ危険であるかを力説した。
 口から出まかせに近い発言もあったが、僕がこのスキー場について誰よりも詳しいことは全員理解している。先生がそういうなら従うしかないとあきらめ、結局、頂上へは行かないことで話はまとまった。
 最初から頭ごなしに否定するやり方もあっただろうが、そうすればきっと僕に対しても、A君に対してもわだかまりが残ったはずだ。
 充分に話し合いをしたように見せかけ、最終的には自分の意見に従わせる――これを熟練の技と見るか、卑怯なやり口だと感じるかは、人それぞれだろう。

 「裁判員制度について考える」というタイトルであるにも拘わらず、一体なんの話だ? と首を捻られたかたもいるに違いない。
 僕はおちゃらけた三文小説ばかり書いている男。裁判員制度について偉そうに語るスキルなどなにひとつ持ち合わせていない。
 だが、これだけは自信を持っていえる。
 一般市民が裁判員になったところで、くだされる判決はこれまでとなんら変わらない。
 最終的な判断をくだすのは裁判官だ。裁判員六人が一致団結して無罪を主張したところで、裁判官が有罪といえば決議は持ち越しとなる。
 彼らはその道のプロ。なにも知らない一般市民を意のままに操るなど、造作ないことだろう。
 そんなつもりはなくても、裁判員がプロの意見に引きずられるのは目に見えている。

 スキー講習が終わったあと、受講生の一人が僕のところへやって来て、「頂上へ行かなくてほっとしました」と本音を漏らした。
 本当は怖くて行きたくなかったが、みんなが行きたいというから、自分も意見を合わせたのだという。
 自分の考えを声高に主張せず、長いものに巻かれたがる性分は、たぶん大人も変わらない。
 声の大きい者が勝つ。
 悲しいかな、それが今の日本の現状なのだ。


〈年金時代〉2009年8月号

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