見出し画像

リピートしたのは誰?

『リピート』乾くるみ・著

 現在の記憶はそのままに過去へ戻り、もう一度自分の人生をやり直すことができるとしたら、今度こそ最高の幸せをつかめると思いませんか? 夢物語ではありませんよ。本当に、時間旅行が可能なんです。どうです? 私と一緒に出かけてみませんか?

 もしもそんな誘いを受けたなら、うさんくさいと思いながらも、たいていの人間は心動かされるのではないだろうか。

 これまでの人生を完璧に生きてきた人間なんて、おそらくほとんどいないはず。あのとき、ああしておけばよかったといまだに後悔してやまない出来事を、『リプレイ』(ケン・グリムウッド著)の主人公であるジェフのように、いともたやすく修復できたとすれば、これほど素晴らしいことはない。

 しかし当然ながら、その時間旅行には大きなデメリットも存在する。一度過去に赴いたら、二度と現在へは帰ってこられないという点だ。現在の記憶を維持したまま子供時代の生活を続けたら、様々な場面でとんだ苦難を強いられそうである。同級生とは趣味も嗜好も違うだろうから、浮いた存在となることは目に見えている。酒も煙草も我慢しなくてはならないし、ほしいものがあってもすぐには手に入らない。柔軟性を失った脳味噌で受験にも挑まなければならず……どうやら、それほど明るい未来は待ち受けてなさそうだ。

 だが、戻れる先が十ヵ月前に限定されているとしたらどうだろう?

 もちろん、ジェフのような波瀾万丈な人生は望めない。たかが十ヵ月で、自分の人生が大きく変わることはまずあり得ないだろう。せいぜい、日常のささいなミスを回避するくらいが関の山。競馬で儲ける程度の冒険ならできるかもしれないが、それだって派手にやり過ぎれば、とんだトラブルにも発展しかねない。結局たいしたメリットはないように思えるが、しかし十ヵ月経てば現在に戻ってこられるのだから、デメリットも少なそうである。これくらいなら、気軽に人生のやり直しを楽しむことができるかもしれない。

 さて、十ヵ月前に戻ることができたとしたら、あなたは一体なにをするだろう?

 今年の春、『イニシエーション・ラブ』(原書房)で本格ミステリ界の話題をさらった乾(いぬい)くるみが、あれから半年しか経っていないというのに、またもや新作を発表する。それが先に記した「記憶を維持したまま、十ヵ月前の世界へタイムスリップした人々」の物語だ。

 就職先も決まり、今は卒論の制作に追われている大学生・毛利圭介は、「十ヵ月前の世界に繋がるワームホールをくぐって、未来からやって来た」という男――風間に誘われ、半信半疑ながらも、時間旅行のツアーに参加することを決める。ツアー参加者は、ガイド役である風間を含め全部で十名。風間の言葉どおり、ワームホールをくぐり抜けて十ヵ月前の世界にやって来た彼らだったが、まもなくして、参加者が一人ずつ不審な死を遂げ始める……。 外部から断絶された空間で、次々と人が殺されていく「クローズド・サークル」や、一見なんの繋がりもないように見えた事件が、実は共存性を持っている「ミッシング・リンク」など、本格ミステリで頻繁に使われる題材を、乾くるみ流にぐにゃりとねじ曲げ、斬新にアレンジし直しているところが、実に心憎い。

 一筋縄ではいかないひねくれ具合は、デビュー作『Jの神話』(講談社)から一貫しており、それがこの著者の最大の魅力でもある。しかしそうであるが故に、マニアには受けても、それ以外の層にはなかなか認めてもらえなかったのも事実だ。

 ところが、本作はこれまでの乾作品とは、ずいぶんと雰囲気が異なっている。本格ミステリなど読んだことがないという読者でも、すんなり作品世界に入り込むことができ、かつその真相に素直に驚ける構造となっているのだ。正直、デビュー当時からの乾ファンである僕などは、彼がこのような万人受けする小説を書いたことに、もっとも驚いた。では、マニアには物足りないのかというと、まったくそんなことはなく、前代未聞の殺人鬼の正体に唖然とするに違いない。

 乾くるみは、遅筆な作家として知られている。一九九八年にデビューして以降、昨年までの六年間に発表された作品はたったの五つしかない。それが今年は二作品――しかも、そのどちらもが傑作ときている。一体、なにが起こったのか、ぜひ本人を問いつめてみたいところだ。

 彼とは、同じ新人賞からデビューした縁もあって、ずいぶんと親しくさせてもらっている。早く新作が読みたい僕は、会うたびに「最近、仕事はしてるんですか?」としつこく尋ねていたのだが、返ってくるのは「いや、それがなかなか……」とはっきりしない答えばかりだった。

 それが昨年末、「ようやく新作を書き始めたよ」という返事が戻ってきた。「おお、ついに重い腰を上げたか」と喜んでいたら、それからわずか数ヵ月後に『イニシエーション・ラブ』が発売された。なんだなんだ? どうして、そんなにも速筆になったんだ? と驚いている暇もなく、次は『リピート』である。「今年の躍進はすごいですね。なにか心境の変化でもあったんですか?」と訊いても、本人は「いやあ、べつに……」とにやにやするばかり。

 うーん、ものすごく怪しい。絶対に、なにか秘密があるはずだ。

 あれこれ考え、はたと気がついた。

 『リピート』には、世界から飢えをなくすためにバイオ食品の研究を続けている人物が登場する。彼は、少しでも早くバイオ食品を完成させたいがために、繰り返し過去へ戻りたいとガイドに申し出る。そうすれば、無限の時間を手に入れることができるからだ。

 あんなにも遅筆だった男が、矢継ぎ早にこれほどの傑作を発表できるはずがない。もしかすると、『リピート』は実話で、乾くるみはワームホールをくぐり抜け……と、そんな邪推を抱きたくもなってしまうのである。

〈本の話〉2004年11月号 掲載


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?