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脱線 08

3(承前)

 後部座席にマッチョと赤居美紀が乗り込む。途中、彼女が変な気を起こして車を飛び降りてしまわないようにと、マッチョが提案したことだった。
「あの……やっぱり煙草、いただけますか?」
 病院を出発してすぐ、彼女は小さな声でそういった。
「どうぞ、どうぞ」
 マッチョが煙草を手渡して火をつけると、彼女は煙を深く吸い込み、安堵の溜め息とともに白い煙を吐き出した。
「……本当は煙草、大好きなんです」
 つぶやくようにいう。
「ほとんど中毒症状。主人は自分がヘビースモーカーのくせに、煙草を吸う女は大嫌いだって、私が煙草を吸うことを許してくれないんです。だからいつも車の中で隠れて吸ってるんですけど……あの……主人には黙っておいてくださいね」
 僕はポーチの中から転がり落ちた「におい消しスプレー」のことを思い出した。この人の身体の内側にはいろいろな不満が溜まっていたのではないだろうか。だから、こんな悲しい事故を起こしてしまったのかもしれない。
 彼女が煙草を吸い始めると、誰も一言も喋らなくなってしまった。息が詰まりそうだ。バックミラーでポーチの女性の様子をうかがう。先ほど、彼女が告白した言葉の一片が気になって、そのことばかりがぐるぐると頭の中で渦を巻いた。
「……本当に誰もいなかったんですか?」
 辛抱できずに、彼女にそう尋ねる。
「え?」
 赤居美紀はきょとんとした表情を僕に見せた。
「子供をはねたあと、事故現場の周りには誰もいなかったって、さっきおっしゃってましたよね。それ、本当ですか?」
「……誰もいなかったと思います。いたら逃げようなんて考えは起こさなかったでしょうから」
 顔を伏せ、小声で答える。
「逃げ出す気なんて、最初はまったくなかったんです。でも、事故に遭った子供はそれほど大きな怪我をしているように見えなかったし、人影も見当たらなくて……だからつい、魔がさして……」
 彼女はそこで言葉を切り、唇に指をあてた。
「あ、でも……」
「でも? なんです?」
「あたし、家に帰ったあと、もう一度、現場に戻ったといったでしょう。パトカーの周りに人がいっぱい集まってました。あたし、頭がくらくらして、思わずその場に座り込んでしまったんです」
 さらに、言葉をつむぐ。
「男の子が早口で警察官に喋っていました。あいつが事故現場にいるのを見たって。坊主頭の……見るからに活発そうな男の子でした。どうやら私がはねた子と知り合いだったみたいです」
 僕はマッチョの顔を見た。
「雅史だ」とマッチョが言葉を漏らす。
「うちのクラスの子です。あの辺りに住んでいるんですよ」
「その子がなんといっていたか分かりませんか?」
 僕は彼女に詰め寄った。
「事故現場にいたあいつってのは誰なんでしょう?」
 なぜそんなことにこだわっているのか分からなかったのだろう、二人とも怪訝そうな顔で僕を見た。
「あの男の子、名前を叫んでいました。確か……ユウイチか、ユウタか……そんな名前だったと思います。うちの息子の名前がユウジなんです。最初、息子の名前を呼ばれたかと思ったものですから……」
「ユウタ……」
 マッチョの表情がかげるのが分かった。

つづく

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