鯨の家

理子さんの家は、環状線駅から少し歩いた住宅街にある。
正確に言えば「理子さん夫婦の家」だ。でも俺は旦那さんに会った事は無い。彼は俺が生まれる前に、飛行機ごと海の底に沈んだきり。

理子さんと俺は血の繋がりもない、半世紀以上も年の離れた、ただの他人だ。
高校で和真と隣の席に座らなかったら、きっと知り合う事もなかった。同じクラスの人間とも殆ど離さない俺にグイグイ絡んできて、一方的に肩を組んで教室を出て、「良い店あるんだよ」とか言いながら近所の駄菓子屋に寄って……次に向かったのが理子さんの家だ。あいつは「ただいまー」なんて言いながら裏に回って、縁側から硝子戸を叩いて家主を呼び出した。そしてその日初めて会った俺を見せて、友達だって紹介した。

表札に書いてあった名前は鯨井。和真の名字は綾城。なら母方の祖母だと思うだろ。
でも和真が理子さんを「理子さん」と呼ぶから、微妙に違う立場なのかと解釈した。だから一息ついたところでそれとなく関係を聞いたら、

「うーん……世間一般的にはー、他人?」

これだ。
今になればもう慣れたものだが、その時は出会って初日だったからかなり面食らった。縁側に腰掛けていた俺は慌てて立ち上がって頭を下げ、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんもう二度と来ませんだなんてまくし立てて──和真はそんな俺を不思議そうに見ていた。そういう奴だった。

和真の実家は理子さんの家のすぐ近くにあるアパートの一室で、共働きの両親が帰るまでは基本一人。その環境であの性格だから好き放題に遊びまわっていて、風情のある建物と緑の多い庭に惹かれて入り込んだのが始まりだったそうだ。一人暮らしだった理子さんは最初こそ酷く驚いたそうだが、何度か顔を出すうちに慣れて、家に上げてお菓子を出してくれるようになった。いやそれは駄目なやつだろ、とは当時聞いた時も思ったし、今も思う。けれどそのまま何度もお供させられるうちに俺も顔馴染みになって、それから三年間殆ど通い詰めになった。

血は繋がっていないとはいえ、和真と理子さんの関係はそういう物だった。
いや、実際の祖母と孫より深い仲だったかもしれない。僕は和真と一緒にいる時しか付き合わなかったけれど、大抵はただ顔を見せるだけじゃなかった。彼女の代わりに買い物をしたり、箪笥の上みたいな高い場所の掃除をしたり、庭の雑草を毟ったり……電気工事の立ち合いなんかもやったっけ。理子さんはその度に御礼をと言ったけれど、さすがに現金を受け取るわけにはいかなかったから、夕食を御馳走になったり居間を自習室として使わせてもらったり。俺たちの高校・大学生活はそうやって過ぎていった。

訃報を受け取ったのは、社会人になって5年ほど経った頃だ。
会社勤めをしていた俺は殆ど理子さんに会う事はなくなって、数ヶ月に一度の平日休みに和真同伴で顔を見せるくらいになっていた。新聞記者になった和真は俺より時間に余裕があったらしいけど、それにしたって毎日じゃない。だから連絡があった時はひどく胸が締め付けられて、もっとどうにかできたんじゃないかと考えながら夜を明かした。

そして次の日、久しぶりに降り立った最寄り駅のホームで和真に会った。
昨日泣いていた顔だというのはすぐ分かった。あいつ、卒業式どころか合唱コンクールで学年5位とかでも大泣きするから。でもその日は今まで見た事が無いくらいに落ち込んで、取り敢えずのボケも無し。第一声はふざけないと気が済まない馬鹿がそんなだから、俺はそれだけでもう駄目だった。

人波のド真ん中で泣き始めた俺の肩を抱きながら、和真はいつもみたいに笑って改札を抜けた。そして生前に決めた通り、理子さんについての一通りの手続きと火葬を終えて、その日は終わり。せっかくだからと近所の蕎麦屋で夕食を済ませて、それで解散。

それで──今日はその一月後。俺の仕事が落ち着いたらまた会おうと言われていたから、都合をつけてまた来た。和真は今日もまたホームで俺を迎えて、指先に引っ掛けた鍵の束をクルクルと回してみせた。

「理子さんの家さー、俺が貰えるんだって」
「……そっか」
「驚かねぇの?」
「可能性は考えてた」

そんな事を話しながら少し歩いて、懐かしい家に向かう。
そこで初めて今日の用件を聞かされた。こっちは誰もいなくなった家にまた改めて寂しさを覚えているというのに、いつもの見慣れたテンションで。「おうち探検隊~☆」なんて言いながら投げ渡された軍手と雑巾を受け取って、これまで足を踏み入れた事の無かった二階へ上がっていった。

二階は寝室と書斎。
生前に聞いた通りの部屋がそこにあった。家探しをする気は毛頭なかったけれど、掃除は必要だ。和真もそのくらいの倫理観はあるから、特に止める気は無かった。入室する時にわざわざ「お邪魔します」と一言発する奴だから。俺はその後に続くだけだ。

「おっ、すっげー! 年代モノの雑誌だらけ、マニアだったら大喜びじゃん」
「これって、旦那さんの──」
「鯨井アリマ。そっちの棚は出演作の原作だな。全然見かけないなーと思ってたけど、ちゃんとここにあったんだ」

興味津々といった様子で雑誌を引っ張り出す和真の手付きは、それでも丁寧で慎重だ。まるで理子さん本人の手を引いて石段を下りる時みたいに静かで、埃を吸い込んでくしゃみをする時は自分の腕で顔を覆う。彼が俺にとって唯一の友人である理由がここにある。きっと理子さんがこの家を託したのもそれが理由で……いや、そもそもこういう風に育ったのは理子さんの影響なのか。そんな事を考えながら、俺は窓を開けて風を入れ、目に付いた埃を拭き取った。

「理子さんから聞いた話さー、覚えてる?」
「どれだよ」
「旦那さんとアパートで暮らしてたって話。俺らが大学入ってバイト始めて、さすがにもう飯食わせてもらわなくていいよ~って言った時」
「あぁ……覚えてる。結構苦労したって話」

和真が広げた雑誌の見開きを見ながら、当時を思い出す。
色々と苦労をしたらしく、理子さんはあまり昔のことを話さない人だった。だからその時聞いたきりだ。

理子さんは「厳しい」とかそういう言葉で済ませていいレベルじゃない両親の元に生まれて、多分、旦那さんにも全てを話せないような経験をしてきた。旦那さんとは中学からの同級生で、両親を頼る事ができない……という点で同じだったからよく一緒にいた。そして高校卒業を機に上京して、そこでようやく両親との縁を切った。

でも最初は上手くいかなかった。
理子さんは社員寮付きの会社に就職したけど、そこが最悪だった。毎日一挙一動全てを理由に怒鳴り付けられて、過呼吸を起こして倒れたら邪魔だと社外に放り出される。まだその時点では給料を貰ってなかったから病院代が払えなくて、泣きながら彼に電話して……辞めたら住む場所が無くなると言って躊躇していたけれど、結局は彼のアパートに住みながら転職先を探すことになったらしい。

誰か大人に助けてほしかった。
当時の自分と同い年になった俺たちに向かって、理子さんは珍しく声を震わせた。

その時の理解度は半分と少しくらいだっただろうか。でも、自分が稼いだ金で生活し始めた今ならその意味が分かる。
高卒で働き始めて一ヶ月なんて、まだまだ子供だ。真っ当に支払われるか分からない給料に縋りながら不当な暴力に耐えて、それができないなら路頭に迷うのが当然なんて有り得ない。あるべき姿じゃない。けど、その年の子供は福祉とかそういう物は分かっていない。それを教えてくれる大人がいてくれれば、理子さんたちは空腹と寒さに震えながら眠ることはなかった。

だから貴方たちは、大人になった私を頼りなさい。それがあるべき姿なのだから。

理子さんはそう言いながら空になった茶碗へ白米を足してくれた。俺はその時もう腹いっぱいだったけど、涙ぐんでるのを誤魔化すためにもそれを食べた。和真も一緒に。

「すごいよなー。そこから理子さんもちゃんと次の仕事見つけたし、旦那さんも世界的大スターになったし」
「あぁ……家も家具も、全部上品だし。生活も安定してたんだろうし」
「俺が貰っていいもんじゃなくね~!?」

まるで隣の部屋にいる誰かに呼びかけるように、口元に手を当てて和真が叫ぶ。
そして高級そうな絨毯の上に転がったので、俺もそのすぐ横に腰を下ろした。

「俺さー、別にこれが目当てで理子さんに近づいたわけじゃないよ?」
「分かってるよ」
「でもさー、その話された時、かな~り嬉しかったんだよね」

そう言って、和真は天井に向かって手を伸ばし、鯨井アリマが載った雑誌を高く掲げた。
そしてそれを真っすぐ見据えながら、言葉を続ける。

「旦那さんがいなくなってから30年くらい? その期間よりも、俺が遊びに来るようになってからの時間の方が楽しいって思ってくれたのかなって。勝手に解釈したワケ」
「……そうだと思うよ、俺も」
「旦那さんも居たら最高だったろうにな~。俺も会ってみたかった。理子さんのことだーい好きな旦那さんに」
「あぁ……それも。俳優さんじゃなかったとしても、同じこと思ったよ」
「え~? めちゃくちゃ気合うじゃ~ん」

そんな事をしばらく話してから、また掃除をする。
でも、別に何かを選んで捨てたりはしない。多分理子さんも分かってたんだろう。捨てるべきものは殆ど残っていなかったし、俺たちに生臭い物を見せないようにと整理してくれていたらしい。寝室に入ると分別された状態で箱とビニール袋がいくつか残っていて、それを運び出すだけだった。これが大人か……というのを思い知りながら一通り終えて、ちょうどいい感じに日が暮れたから夕食の準備を始めた。

ちょうど台所の戸棚に乾麵があったから、蕎麦にする。
旦那さんの好物だったそうで、理子さんが何か食べさせてくれる時は蕎麦になることが多かった。だから俺たちにもその癖が付いて、何か食べようか……と歩いていたところで目に付けば大抵は蕎麦にする。俺が麺を茹でている間に和真が近くのスーパーへ具材を買いに走って、どちらも大して待たないくらいのタイミングで事が運ぶ。そうして出来上がったものを少しずつ、二人分を仏壇に供えてからいつもの居間で頂くことにする。

「和真はさ、結局この家に住むの?」
「住むよー。職場もそこそこ近いし、今住んでるとこの家賃よりこの家の税金の方が安いし」
「もうそこまで調べてるのか」
「んー。理子さんがその辺の書類もキッチリ纏めといてくれてたから、俺はそれ読んだだけ」
「すごいなぁ……」

麺つゆを入れたグラスにネギと刻み海苔をありったけ入れて、和真はニッと笑う。

「まぁ俺も仕事はあるんだけどさ、いつか俺みたいなのが入り込んできたら蕎麦食わせてやろうってワケよ」
「ははは……いいな、それ。じゃあ理子さんみたいなしっかりした大人にならなくちゃだ」
「何やかんや、俺たちの親にもちゃんと話通してたしなー。その辺できるようにならんとじゃん」
「本当に、何から何までしっかりした人だった……」
「な。向こうでは旦那さんとのんびりしてたらいいな~……いいなーっ!」

仏壇に向かって圧掛ける奴がいるかよ、なんて事を言いながら。
寂しさを感じつつも、少しずつ箸を進めた。

「でもさー……俺ってそんなちゃんとできると思う?」
「なんだよ急に」
「本音で、本音で」
「できると思うよ。お前、気を遣うべきところで気を遣うし……むしろ俺より上手いし」
「そこは無理だって言えよ~!」
「何なんだよ本当に!?」

ね。
コイツこういうとこありますよね、ね、ね。

わざわざ仏壇前に正座して手を合わせながら、和真はそこに飾られた夫婦の写真に向かってそんな事を言う。しばらく眺めていたけれど、数分経って「これ止めるまでやるやつだ」と気付いたので、立ち上がって頭を叩きに行った。

「賢哉も一緒に住もうって言ってんの、俺は!」

癇癪を起したような演技をしながら、和真は不意にそう言った。

「賢哉も職場近くだし、一人暮らしだし……俺は一階の部屋使おうかな~って思ってるけど、それでもまだ全然余ってるし。働きだしてから遊ぶ機会も減ってるしぃ……一緒に住んだら毎日飯食って、隙あらば遊べるし」
「隙あらばって……でも俺、結構帰り遅いぞ。終電帰りもそこそこある」
「俺は数日帰らないこともありますぅ~」
「す、すごいな新聞記者……」

だろ? と得意げな顔をされると、答えに困る。
この家で和真と同居するのは全然嫌じゃないし、金銭面からむしろ助かる。ここで即決できない性格なだけだ。和真もそれは分かってくれているから、これ以上は強く押さない。というか、もう決まった物として話を進める。

「映画のビデオとか一緒に見れるしさ、取材先で買ってきた土産もんとか食べられるしさ、これから便利になるぜ」
「なんか俺ばっかり良い思いをしそうな……」
「そんなこと無いって。俺が寂しがりなの知ってるだろ」
「……そうだな」

少し目線を外して、高い位置を見る。
そこにはおそらく「鯨井アリマ」に由来したクジラの絵が飾ってある。どういう経緯で製作された物か俺は知らないけれど、いつも理子さんや俺たちを見守ってくれた絵だ。それを眺めながらこの家で過ごした日々を思い出していると、余計な迷いだとかそういう物が流れ去る。

「誰が言ったのか知らねぇけど。鯨井アリマは今、クジラに生まれ変わって自由に海を泳いでるんだよ~……ってのがファンの中では結構言われてるんだってさ」

和真の言い方もあったと思うけど……陸に残された理子さんをよく知っているからか、素敵だねとかそういう感想は出なかった。だからそのまま黙って次を待った。

「何も知らねぇ奴が勝手な事言ってんじゃないわよ! って思ったけどさ。今はその隣に理子さんが居たら良いな~とか思ってたりしてさ。そういうのわざわざ言わねぇじゃん。まず理子さんとは……って話から始めなきゃだし。それで電話掛けるのも何となく流しちゃうしさ」

カラン。
グラスに注いだ麦茶の中で、氷がそんな音を立てる。

そういえばそうだ。
理子さんも結構、こういう風にオチも教訓もない話を聞かせてくれた。まだ彼女が「知らない大人」だった時は曖昧な返事をしてしまっていたけれど、慣れてくると自分に当て嵌めて考えてみたりもした。今になって思えば、俺たち二人の人間性はそういう会話の中で育ったのかもしれない。そんな気さえする。

理子さんもきっと、そういう話を聞いてくれる人が欲しかったんだろう。
それは本来旦那さんの役割だった。でもある日突然いなくなってしまった。だからとても、とても寂しい思いをして……そんな時に和真が庭先に入り込んできて、それを喜ばしく思った。

「俺は」

クジラの絵を見ながら、口を開く。
和真は視界に入ってなかったけど、聞いてくれてるのは分かってた。

「俺は……あの世にも、ここと同じ家があって。そこで二人が幸せに暮らしてればいいなって思うよ。何でもない話をして、蕎麦食べて、綺麗な場所を見に行って……それで一日の終わりにはここに帰る。そうだったら良いなって、思う」
「……いいなー、それも」

静かに、静かに時が流れる。
お互いのアパートで宅飲みした時よりずっと、穏やかに。優雅に泳ぐクジラと、仲睦まじい夫婦に見守られながら。その流れがとても愛おしく思えて、緩やかな眠気が訪れる。

「もうさー、今日からここで寝ちゃう?」
「さすがに泊まる準備はしてないよ……」
「良いじゃん別にー。もう夏だぜ。片付けは俺に任せちゃってさ」
「うん……」

ウェイッ、なんて掛け声と共に引っ張られて、丸めた座布団の上に頭を乗せられる。そうしてされるがままになっていると本格的な睡魔に襲われて、意識を手放す。

死者への弔いは様々な形がある。
まだ俺たちは一般的な形のそれを殆どできていないけれど……これもこれで一つの弔いになるかな、なんて思いながら。

形がある以上、この家もいつかは解体という未来に辿り着く。
でもそれを今すぐにせず、あと十数年くらいは永らえさせて……そこから先はどうするか分からないけど、理子さんと旦那さんのことはずっと覚えてる。

俺は別に、和真や理子さんに救われたわけじゃない。
もし出会わなかったとしても普通に大人になって、普通の大人として生きてたと思う。
でも間違いなく、二人に出会ったから得られたものがある。二人にとっても、俺がいたからこその何かがあれば嬉しい。

だから、気持ち良く眠りに就く。
引っ越しの日程とか、予算とかを考えながら緩やかに。
とても、とても幸せだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?