旅立ち①

75歳になり、子どものいない私はそろそろ終活?と思わないでもない。
自分の人生をこの段におよんで振り返ってみたいと思う気持ちが強いのは、人様とは少し異なった環境で育ち歩んだ人生だから?言葉に尽くせない慈愛に満ちた人生を振り返り,この満たされた人生は私だけのものではないと年を重ねるごとに実感している。
私には明確な3冊のアルバムがある。
生まれてから最初の結婚までの独身版 旅立ち①
結婚して当地ドイツに住むようになった自分版 旅立ち②
ドイツで立ち上げたNPOと2度目の結婚。教師として走り続けた日々。
ーマグロのごどく編

想像の世界でしかない「わたしの旅」は記憶には刻まれていない1歳7か月の時。両親と姉二人と兄の6人家族は寒い2月に極寒の群馬の温泉地に引っ越ししたのだった。母の病気が思わしくなく、療養所にはいることになり、子供4人はキリスト教の児童保護施設に預けられることとなった。冷え切った身体を温泉風呂につかり温まった記憶は姉から聞いていた。昭和24年の2月、大阪からこの温泉地まで辿り着くまで子供にとってはさぞかし長旅だったろう。温かい温泉が「ようやく着いた!」と記憶にきざんだのだろう。4人兄弟がドサッと施設に入所し、さぞかし施設ではおおきな出来事だったにちがいない。ここで私たちは中学校卒業まで過ごしそれぞれが準備された進路に旅立っていく。「施設そだち」ということで一度も辛い思いをしたことがないのは1歳7ヶ月という歳で預けられ、寮母さんを母と思い自分の姉兄を含めたくさんのお兄さん、お姉さんに可愛がられからで、両親と無理やり引き裂かれた子供たちはこの施設は単に「つらい共同生活でしかなかった」と知ったのは随分後になってからだった。私が母と思ってそだててくれた寮母さんをみんなは「先生」と呼び、私には母親代わりの「おばちゃん」だった。もの心ついたときに知った父も母もおばちゃんにとってかわるほど近い存在には思えなかった。このことをのちに「かわいそう」とコメントするのは、他人であり何よりも身が裂ける想いで乳離れしたばかりの子供を預けた父母であった。中学を卒業したわたしの進路はなぜか他の子供たちとは異なり、京都のミッションスクールに推薦入学した。ただ引かれたレールにのっただけの進路で過ごした3年間は恵まれた学友と恵まれた環境ですごした極くフツウの毎日の繰り返しで、今振り返ってみても満たされた青春時代だった。
60年前を振り返る今、思うことは限りなくある。一体私の授業料や生活費は誰が支払ったのだろう? お金の管理は自分でしていた? 母以上に母であった「おばちゃんが」亡くなったときに綺麗に番号がつけられていた私からの手紙が見つかった。今更ながら思う疑問の答えがこの手紙につまっているに違いないが、読み返すのもそれは時間のかかるほどの量である。いつかじっくり読んでそのころの私に触れてみたい。ただ満たされた楽しい3年間を終え次に進んだのは大学。京都から東京に引っ越しまでして進学したい人は同級生にはいなくて、2名の推薦枠に入り英文科を選び入学した。特別待遇と自覚することもなく。ここでも私の入学金は?授業料は?生活費は?など謎のまま。私は全国から東京に進学した教会関係者の子弟が暮らす寮にはいることとなった。大学での4年間はそつなく何の目標もなくすぎるところだったが、2年生の時に知り合った寮の先輩の影響で彼の専門領域である哲学にのめり込んだ。この人物が先か哲学が先かその関わりのありようは今思い返しても定かでないのだが、平凡に過ぎていく毎日に降りかかったスパイスのように私の中で何かが目覚め、芽生えたような気がする。気がつけばいつも先輩と哲学書が目の前にあった。卒業間近の彼は卒論を仕上げなければならなかったはずだが、自分流に仕込んだ理論を掻き回す私に論文は一向に進まず留年した。なんでも論文のテーマはプロティノスの「美」について。若いときからキリスト教の信仰に出会い、将来は修道士になると決めていた彼はこの哲学と宗教のはざまに迷い目の前の英文科の女子学生に振り回され、出口が見えない暗闇に押しやられたのだ。机上の論理に振り回された私たちに、気づいたのは他ならぬ「おばちゃん」だった。わたしが彼の将来の足枷になっていると見抜いたのもおばちゃんだった。哲学に迷い、自分の信仰に迷い将来をも見失うことに警鐘を鳴らした。なんとか卒論を終わらせ大学を卒業した彼はアメリカの修道院にいくこともなく、当時はやっていた訪問販売の仕事をしながら私の身近にいつもいた。「英国に行ってみない?」とおばちゃんに切り出された時、私は自分の中に大きな岐路」」があることに気づいた。それは彼との別れだった。これまでそうだったように目の前に敷かれたレールに素直にのったのは、特に反抗する理由が示せなかったから。約束どおり母校の京都の高校の英語教師の職を担保に英国に向け出発した。大学を卒業した1970年(昭和45年)の5月のことだった。


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