父を偲んで

明治41年(1908年)の今日、3月20日生まれの父が生きていれば115歳になる。若いときに自分の将来を見限らなければならない病になり、その病に立ち向かい必死でいきようとした熱意を国策で摘み取られ、そればかりか強制的に療養所に隔離され、他の人を扇動したということで危険分子とみなされ罪人扱いとなり療養所内の重官房と呼ばれる部屋に50日にわたり監禁された過去を持つ父はその後、94歳でこの世を去るまでそうした過去に蓋をして沈黙した。幼い私と姉兄を施設に預けざるを得なかった両親の胸中など子供たちの私たちにはとうてい理解できず、「理不尽」で「不条理」な自らの境遇に押し潰されまいとその年齢なりに闘った人生を歩んできた。私の中の父はおだやかなで自分の意見など発することもなく、ひたすらキリスト教の執事(司祭の権限はないが教会のミサなどで訓話したりできる補佐役)として聖書にひたっている人のイメージだった。そう、父が亡くなったその年までは。
ある日、兄から長い手紙が届き、驚くべき父の過去を知ることになったのだ。その記事は熊本日日新聞の連載記事「検証ハンセン病史」の記事のひとつ、父について語られているという。私たちには謎につつまれた病の記録、そして療養所へ送還されたいきさつなどが綴られており記事の見出しには「生涯数奇な運命をたどった人」とあった。わたしにとって「家族」「家庭」「ふるさと」はどこかで禁句であり日本人ならだれもが入りやすい会話はタブーだった。キリスト教の養護施設にあずけられた時から今日までの短い人生を自分史と考えていた。この自分史が決して短いものではないこと、いや短くしてはいけないと自分に言い聞かせ、連載記事を担当した新聞社の記者と会うことを決心し、彼から取材を受けることにした。

父の逝去を伝えるべく出した一通の挨拶状が、今まで『沈黙』というかたちで閉ざされてきた父(の過去)を知る糸口となったこと。それは九州の福祉施設の館長から兄宛てに届いた書状と新聞の連載記事だったこと。兄はこの新聞記者から取材を求められたが断ったと言う。その理由には次のようなことが記されていたと後に彼から聞いた。
「数奇な運命を若い時代に過ごしたとしか思えないすざましい父の生きざまを感じるが、遠いドイツで一人でこれを読む妹を思うと残酷な気がして読ませるのにとまどい迷った」、さらに「自らの生き様を子どもには伝える気持ちを巌として拒否した父の遺志を尊重したい」と。

 様々な想いが行き交った。父の運命は「ひとつ」の社会問題であって、部落問題・在日韓国人問題・戦争責任問題、近年では青少年の犯罪・いじめなど、その時代・時代に翻弄され生きている人の問題ではないか。一方的に自分たちの正義を振りかざす日本社会が、ひとつの「暴力」に思えてならないのはなぜか。世間は「人権問題」だと叫び騒ぐが、ある日突然与り知らずにふりかかる負の財産を背負って生きていく人たちを我々はどう受け止めるべきなのだろうか。わたしはこうした「社会」に問題があるように思えてならない。私の命は、父の覚悟で授けられたことを知ったときの衝撃は確実に自分の生きてきた軌跡を塗り替えた。

父は同じ病の母と療養所内で知り合い、おそらく当時行われていた断種や避妊を逃れ「逃亡した」と記されている。ただ家族を作り家族として生きるために。
「逃亡」と判をおされ罪人のように逃れ父が決死の思いで築いた家庭に生まれ、その家庭を可能なかぎり「世間なみ」に保とうとした父に守られてきたのだとわたしは知った。世間が「善し」とする社会が「正義」であった当時、本来ならこの世に生をうけることもなかった私であり姉兄であった。

 ここ3年ほど世界はコロナとの闘いを重ねてきた。父の病、水俣病に苦しむ人たち、東日本震災で大切な家族や生活を失った人たち。父の生きてきた94年の命の重みを今だから少しわかるようになってきた。私は父を誇りに思う。父がドイツに住む私にいつも電話や手紙で口にしていたことばがある。「祈っとたよ」なぜか九州弁。
そして今心に響く歌がある。 
「いのりは口よりいでこぬとも、
まこと(誠・真実)あるたま(魂)のねぎごと(願い事)なり」

世界中の悲しいできごとに、私ができることはただひとつ「祈ること」しかないのか、自問自答する昨今である。  (2023年3月20日記)

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