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ケヤキの物語 第1回

ケヤキが生まれていることを知っていたのは村で唯一の産婆であるアタだけだった。
村はずれに越してきたばかりという若い男が夜更けにアタを訪ねてきた。彼は身重の妻がおり、子どもが産まれそうだとごく穏やかに告げた。その人ごとのような様子になにかおかしなものを感じたが、アタはいつも通りの支度で男の後について家に向かった。

村はずれのその小屋は山の上にあった。アタは廃屋だと思っていたボロ屋でとても人が住めるようには見えなかったが、今は中はきれいに掃除され藁敷きの寝床とがたついたテーブルの上にランプだけが置かれていた。
夫婦の荷物は大きな風呂敷包みと古ぼけたトランクだけで、赤ん坊を育てていけるような家具は何ひとつ見当たらない。

妻は部屋のすみにうずくまるようにして呻き声をあげていた。顔は見えなかったががっしりとした体つきは、田畑の仕事をしてきた人間のように見えた。美しい手をした夫とはまったく違う育ちのようだ。
喘ぎながらも妻はアタに礼を言い、初めての子どもですと心細げに言った。
アタは夫に湯を沸かすように言うと、夫は他の夫たちと同じようにまるで初めて聞いた何か意外なことのように慌てふためいて湯を沸かし始める。
この小屋には電気もガスもなく、夫は外の焚き火に大きな鍋をかけた。
あの調子ではたっぷりと湯が沸くまでどれぐらい時間がかかるものか。アタは今更ながら1人で来たことを悔いた。子どもたちの誰かを連れてきていれば、もう一つ焚き火をすることもできたし、あるいは麓まで降りてガスを借りることもできただろう。

お湯も沸き切らないうちに思いのほか早く子どもは生まれた。
安産だった。アタはほっとしながらも、この殺風景な部屋でどうやって子育てをするつもりかと危ぶんだ。

きっと若い夫婦は子どものために何が必要か知らないのだろう。
多くの、予期しない妊娠に戸惑う若夫婦たちを思い浮かべながらアタは思い、明日の午後には赤ん坊に必要なものを届けさせると夫に約束した。
夫は丁重にお礼を述べ、必ずお金は払いますといったがここのどこにそんなお金がある?アタは心の中でため息をついた。きっと駆け落ちなのだ。でなければ、身重の妻とこんなところで暮らすものか。

アタの子どもたちは、アタが見知らぬ人々にお金を使いすぎるとまた言うだろう。だけど私に何ができる?困っているのは赤ん坊で、そこへ置いておけば数時間で死んでしまう。確実に。
自分が取り上げた赤ん坊をみすみす亡くすような産婆がいるか?アタはいつも通り子どもたちに言い返すだろう。何十回、何百回繰り返したかわからない子どもたちとの言い合いだ。

アタは今は母親となった若い妻に、赤ん坊の身体を冷やさないように、滋養のあるものをしっかり食べてよく眠りなさいと告げて夫婦の家を出た。
妻は体つきに似合わないほっそりとした顔立ちで、今は精魂尽き果てて口をきくのも辛そうだ。アタに言われた通り赤ん坊に乳を含ませ、目を細めてそれを見ている。

小屋には時計もなく一体今が何時なのか見当もつかないがアタは家に帰ることにした。夫は夜道が危ないと言ったが、月が出ていて足元は大丈夫そうだ。なにより疲れて自分のベッドで眠りたかった。
少し歩いて振り返ると、小屋の壁の隙間からも淡い光が漏れていた。壁の補修も必要だ。冬の来る前に。きっとカオルがやってくれるだろう。あの子は手先は器用だし、どこかでいらなくなった板切れを探してくる。そして、もっと寒くなったら小屋の中にかまどを作る。

アタは夜道を歩きながら若い夫婦と生まれたばかりの赤ん坊に何が必要なのか、どうすればそれらを揃えられるのかを考え続けた。アタは急に忙しくなったような気がして心が躍った。村ではもう長いこと子どもが生まれてなかったのだ。
「あら、そう言えば」
アタは立ち止まってもう一度小屋の方を振り返った。
もう小屋は見えなかった。アタは夫婦の名前を聞くのをすっかり忘れていたことを思い出したのだ。どうやってあの夫婦は自分が産婆だと知ったのだろう。越してきたばかりだと言ったのに。
きっと物売りのマサか金物屋のトリオに違いない。
明日もう一度行くのだからその時に聞けばいい。アタは今日生まれた赤ん坊のことを考えるとなにもかもどうでもいいような気がしてくる。
「私がとりあげた赤ん坊の中でも素晴らしい赤ん坊のうちのひとりだ。しかもあんなにも丸々と太って元気そうで。」
自分の仕事の最も誇らしい瞬間をアタは何度も何度も繰り返し反芻した。

だが、アタがあの若い夫婦に会うことは二度となかった。

続く


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