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反出生主義者は不幸か

※この記事では「反出生主義」の言葉の意味を説明しません。
※この記事では「反出生主義者」に対する考察であり、「反出生主義」そのものについて考察するものではありません。

「反出生主義者ってさ、ただの不幸な人たちでしょ」

そんな「反出生主義者」についての憶測。SNSで「反出生主義」と検索するとそんな感じの「反出生主義者=不幸」といった類の発言がよく目に入る。
これについて、「それは偏見だ」と思う人もいれば「確かにそうだ」と思う人もいるだろう。

「反出生主義者は不幸なのか」
今回はこれをテーマに自分なりに考えたことを記事にしてみたいと思う。
全然きれいにまとまってないけど、せっかく書いたので投下します(3500字)。

1.不幸判断

そもそも「不幸」とは何か。(wiki様に「不幸」のページがない…!)

1 幸福でないこと。また、そのさま。ふしあわせ。「不幸な境遇」
2 身内の人などに死なれること。
(不幸とは - コトバンク)

一般に使われる「不幸」は「幸福ではない」、「幸福の対義語」という意味を持つ。これをさらに具体的に言うなら「苦しい、悲しい、辛い状態や状況、境遇」といった意味だろう。その定義で話を進める。

まず「反出生主義者は不幸」という判断は二つに分けられる。
・反出生主義者本人のクオリア(感覚、主観)に基づく自己判断。
・反出生主義者の状況などに基づく客観的判断。


前者は反出生主義者自身が「私は不幸だ」と判断している場合。
この場合では、自他共に「反出生主義者である自分(その人)は不幸」ということを認めているので、特に考える必要はない。しかし、不幸の対象を全ての反出生主義者として一般化することはできない。

後者は反出生主義者の現在の状況(物質的、精神的豊かさ等)やそれまでの境遇(生まれ育ち)、将来的展望(これからどうなる)を考慮した結果、客観的に「不幸」だと判断される場合。
この場合では、必ずしも反出生主義者自身の判断に依らず(自己判断は一要素に過ぎない)、客観として彼らを不幸だと判断している。これは他者による不幸判断ともいえる。

ここで取り扱う視点は後者である。

2.反出生主義者になるきっかけ

では次に、反出生主義者になるきっかけは何か、を考えてみる。そこであげられるものは主に二つ「哲学的要因」「実存的要因」である。

前者は「出生というものを哲学的に考えたい」という興味心や探求心を入り口としてこれについて考えるようになり、あくまで議論の上では反出生主義に同意しているという場合。これは哲学ゲーム、分析哲学といったイメージ。(実際、反出生主義について議論することがあれば、個人としてはこのスタンスをとった方が無難な気がする…)。

後者は実存、すなわち実際的な問題をきっかけとして、反出生主義者となった場合。これは更に、個人的問題において主に具体的な三つに分けられると思う。
・「子供を生んで良いのか」という懐疑。
・「生まれて来て良かったのか」という懐疑。
・「生まれて来たくなかった」という思い。

☆反出生主義者になるきっかけ
●「哲学的要因」
「これは正しいのか」という興味心、探求心。
●「実存的要因」(個人における)
・「子供を生んでいいのか」という懐疑。
・「生まれてきて良かったのか」という懐疑。
・「生まれて来たくなかった」という思い。

3.反出生主義者は不幸か

これは私の憶測なのだが(といってもまったく根拠がない訳でもないけど)、「反出生主義者は不幸な人たち」という発言が指しているものは、特に「実存的理由」のうち「生まれて来たくなかった」という思いから反出生主義者となった人のことであるように思われる。
これは「自分の生を嘆くが故に反出生主義者なんてものになったのだろう」という憶測によるものだと思われ、ここに侮蔑的な感情が込められている様にも感じられる(私の憶測です)。(イノセンスのバトーさんのセリフを文字って言うなら、「てめぇのツラが曲がってるのに親(出生)を責めてなんになる」みたいな感じ…違うか)。

仮にそうだとして、その憶測はあながち間違いでもないとも思われる。実際、自分の生に何かしらの不満を持っており、それ故の出生の否定、からの反出生主義というルートを辿ったらしき人が散見されるのも事実だろう。その数は少なくない。

しかし、先に述べてあるようにルートは一つではない。不幸であるが故に反出生主義者になったとは限らず、「出生」について懐疑したことで反出生主義者となった場合もある。全ての反出生主義者が「生まれて来たくなかった」と思っている訳ではない。

そもそも「反出生主義」というものについて、哲学的にしろ実存的にしろ考えるに至るには、ある程度の教養と思案できるだけの環境が必要になる(インドのスラム街やアフリカの貧困集落に生まれた人がこれを考えるだろうか)。その時点で、反出生主義者(と名乗る人)は客観的に見て「幸福である」と見ることもできる。少なくともSNSで何かを呟ける程には素養を持ち、環境があり、たぶん食うには困っていない(実際は病床で死にかけかもしれないけど)。これは客観的に見て幸福だと判断しうる。

しかしながら、「反出生主義」というものに気付き、これを考えている時点で「不幸である」と見ることもできる。「反出生主義」を実存的な問題として受け止めずに済む人はおらず、それは基本ネガティブなものであるから(自分の生に対する葛藤など)。

ここまでをまとめると以下になる。

・反出生主義者は「不幸である(と思っている)」人が少なくない。
・反出生主義者がみんな「不幸である(と思っている)」訳ではない。
・反出生主義者は「反出生主義」について考えられる程には「幸福である」かもしれない。
・反出生主義者は「反出生主義」について考えている時点で「不幸である」。

(さらに付け加えるのなら、「反出生主義」の持つ「生への負い目からの解放」という側面によって、これを考えることで自らの「不幸感」を幾ばくか軽減することができるという見方もできる。だから反出生主義に気付いた人は幸福だ、とは言えないけれど。)

4.生まれた者はみんな不幸?

「この世に生まれないこと これ以上の救済は無い」
(エレン・イェーガー 諫山創『進撃の巨人』)

「生まれてくることは、生まれてこないことより悪い」
そもそも、それが反出生主義の「誕生害悪論」が意味するところである。
これに基づけば、この世に生きている人(存在)の中で不幸でないものは一人もいない、と言える。
この世に生まれた時点で、既に不幸なのだから。

これに同意する反出生主義者の中で「でも私は幸せですよ」と言う事は、原理的に考えれば矛盾していることになる。誕生害悪論に同意している時点で、自分自身「生まれてこないほうが良かった」のに「不幸にも生まれてきてしまった」のだと認めることになる訳なのだから。

しかしそれでも、「不幸中の幸い」ということはある。
例え「生まれて来た不幸」という事を認めていたとしても、「ラーメンを食べれる幸福」を感じている反出生主義者は普通にいることだろう。
これを持ってして、「私は生まれてこない方が良かった、でも私は今幸せですよ」ということが一応成り立つ。「現在においては」そう感じることができる、という話になる訳だけれど。

そして、「誕生害悪論」に必ずしも同意しない形での反出生主義、すなわち「出生のギャンブル性」に対する反出生主義においては、「運よく幸福になれた人」の存在を普通に認めているので、「反出生主義者だけど幸福です」というのは当然成り立つ。ただ、「生まれてくる誰もが自分の様に幸福になれるとは限らない」という点で、反出生主義に同意しているというだけなのだから。

これをまとめると以下になる。

・反出生主義者のうち、「誕生害悪論」に同意している人は「不幸である」。しかし、「不幸中の幸い」という意味で「今は幸福である」という場合はありえる。
・反出生主義者のうち、「誕生害悪論」に必ずしも同意しない人は「不幸である」とは限らない。

5.<結論>それがどうした

結論、反出生主義者の中には不幸な人もいるし、不幸ではない人もいる。
なので「反出生主義者=不幸」は成り立たない。

まぁ考えるまでもないことなのかもしれない。
そもそも、主義主張や発言の内容と個人の人格を結びつけて考えてしまうのは良くないよねという話。内容と属性の分離。そうしないと、議論や思考をミスリードしてしまうから。

だからまぁ、仮に「反出生主義者はみんな不幸」であったとしても、「それがどうした」という話である。
だからこの記事に大した意味はない。でも、書いてもいいじゃない。

ということで…おしまい!

ハトの餌になります。