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反出生主義の実現と実践

「反出生主義の実現は不可能だから無意味。」

「反出生主義の実現性」に基づくそんな感じの論調を、反出生主義というワードで検索してツイッターを眺めてるとたびたび目に入る気がする。
まぁ実現は難しいわなぁと思いつつ、今回はそのことについて簡単に。雑文だけど修正する気力がない。

1.反出生主義の実現

「反出生主義の実現」という言葉が意味するのは、恐らく「この世の一切の人間(有感生物、生命)の消滅」を指すのだと思う。もっとわかりやすく言うなら、「誰も子供を新たに生み出さない社会の実現」だろうか。

その意味で考えるのなら、反出生主義の実現は不可能ではないが、限りなく困難であるのは確かに明らかである。全ての有感生物の消滅は地球爆破でもしないと無理そうだし、人間社会に限って考えたところで、誰もが反出生主義的倫理観に従って、意図して子供を作らないことで満場一致になることはないだろう。反出生主義者たちが理想とする消極的人類滅亡は、核爆弾による人類滅亡より難しい様に思われる。

この困難性の指摘の対象は、“社会”や“世界”といった集団における「反出生主義の実現性」である。社会全体における結果主義のような視野だろうか。
反出生主義における「新たに生まれる被害者を減らしたい(失くしたい)」という主張は、他者を意識したもので、まさにこの“社会”や“世界”を対象としたものである。

自分が子供を作らずとも、誰かが作り続けるのなら、結果として出生による被害者は生まれ続ける。それを看過することができない反出生主義者は、義務感や使命感を持って反出生主義を社会に啓蒙しようと考えるだろう。しかし、上述のように、その“実現”は難しい。故に反出生主義は無意味だという批判にも繋がっている。また、反出生主義の実現の為に反出生主義者はもっと活動的になるべきであるという指摘も為される。

しかし、多くの反出生主義者は人類滅亡を目的として行動しているようには思えない。それは何故か。
私はその答えは、「そこまで意識していないから」だと思う。

そもそも、社会における「反出生主義の実現」が達成されなければ、反出生主義は本当に無意味なのだろうか。
ここで「反出生主義の実現」と「反出生主義の実践」の区別をしたいと思う。

2.反出生主義の実践

「反出生主義の実現」が反出生主義が社会(世界)において完遂されることを意味するのに対して、「反出生主義の実践」は個人において反出生主義的倫理観に従った行為として完遂されることを意味する。

反出生主義者として子供を作らない選択をしている人は、必ずしもその全てが「人類滅亡」を完遂することを目的として不作為を選択しているのではない。その多くがまず「出生に関与することをしたくない」という観念を動機としている。
自分ひとりが子供を作ろうが作るまいが、人類の存続、滅亡、いずれの結果にもほぼ関係がない(あると思うのは過大評価)。それでも反出生主義者が子供を作らないのは、「自分の子供に存在し始めることの害悪を与えたくない」と思うからだ。もっと単純に言うなら「私は悪いと思うことをしたくない」という感じ。つまり、行為の結果(道具性)ではなく、行為そのもの(内在性)によって出生の不作為を選択している。

これはヴィーガンに置き換えても同様である。
ヴィーガンが食肉を拒否するのは、食肉産業の中で動物が搾取されることの阻止を目的した選択であるのは事実だろうが、目の前にある加工肉を食べても食べなくてもその目的とはまったく関係がない。
それでもヴィーガンが頑なに肉を食べないのは「動物から搾取した肉体を摂取する」という行為をしたくないからだ。本人の中でのヴィーガニズムの一貫性を保つ為に、食肉という行為はできない。例え誰も見ていなくとも、この信念は変わらないだろう。

もっと違う例として、選挙における一票が挙げられる。
選挙というは大体、有権者がそれぞれ一人一票を持って候補者に票を投じ、その得票率によって当選者が決定されるシステムだ。
そこで投じられた票のうち、その票の先となる候補者が誰一人当選しなかった場合のものは「死に票」と言われる。一票を投じても、投じなくても結果がまったく変わらないという票だ(若者の「どうせ一票」という感覚がコレ)。
では、その死に票となる一票を投じることは無駄だろうか。
……有権者の投票率向上に寄与するからこれには意味がある?
なら、投票率などが明らかにされず、自分が投票した事が何らの結果に影響としなかったとしたら無意味になるのだろうか。
この場合の一票は客観的に見れば無意味に見える。
しかし恐らくは、投票者自身にとっては、結果に関わらず自分の投じた一票に意味があると感じられるだろう。例えそれが何者にも認知されずとも、その候補者に投票したという行為が重要なのだ。

この「結果や目的」に依らず「選択し実践するという行為」に対して意義を見出しているのならば、「結果として無駄なのにしていること」の意味が理解できるはずだ。
反出生主義者にとっての「反出生主義の実践」は、例え「反出生主義の実現」が叶わずとも、行為として意義を持つ。

反出生主義にしろ、ヴィーガンにしろ、動物愛護にしろ、これらを宗教の様にしか見れない人はこの視点が欠けている様に思える。彼らは結果はどうであれ、“正しい”行為を選択したいのだ。

3.咎められなければ人を殺すか

何者にも知られず咎められなければ、あなたは人を殺すか。
デスノート(名前を書かれた人が死ぬアレ)を拾って、使用した時のデメリット(死後に天国にも地獄にも行けない)が一切ないとしたら、殺したい相手の名前を書けるだろうか。まぁたぶん、いずれ書くだろう(私もたぶんそうだ、別に殺したい相手はいないけど)。
しかし、恐らく大抵の人はまず躊躇し、何らのデメリットがなくとも、書くか書かないかの葛藤を抱えるだろう。そして名前を書いて相手が死ねば、やはり何かしらの良心の呵責を抱くことになるだろう。
それは「殺したい相手が死んでくれる」という結果ではなく、「人を殺す」という行為に意識が向くからだ。例え好ましい結果を招くのだとしても、その行為を犯すことができない。ここで働く心理の原動力は、以前書いた記事で述べた「倫理」によるものだと思う。

反出生主義において、「子供を作る行為は無差別殺人の様なものだ」という表現がなされることがある。生まれた者はいずれ死ぬ、ならば生み出すことはその者に死を与えるのと同じという話だ(実際はちょっとニュアンスが違う)。
つまり、反出生主義者にとって「子供を作る」という行為は「殺人」の様なものだという認識なのである(個人によるだろうけど、誕生害悪論に同意するならこうなると思う)。
なので、反出生主義者は子供を作らない。
人類滅亡の為とかではなく、もっと単純に「自分の子供(になるかもしれない存在)に四苦八苦を背負わせたくない」から作らないのである。
また、例え誕生害悪論を否定する立場でも、「子供を作る」という行為は子供に対してロシアンルーレットをするようなものだという認識なのであれば、その引き金を引く行為ができなくなる。不幸の弾丸が出ないことを祈りながら、自分の子供に引き金を引くことはできない。

だから、反出生主義者に「消極的人類滅亡などは実現できないから反出生主義なんて無駄だ」と諭したとしても、多くの反出生主義者は立場を変えることはないのではないだろう。これは「世界から殺人は無くならないのだから、殺人を否定しても無駄だ」と言われるのと同じなのだから。

4.結果か、行為か

・「反出生主義の実現」は社会(世界)において、出生が起こらない社会の実現を意味する。結果主義。大義的。実現困難。
・「反出生主義の実践」は個人において、出生に関与しないことを意味する。実現を目指す(道具性)のではなく、行為そのもの(内在性)によって選択している。

社会における実現と、個人の実践は繋がってるけど、意義においては別物だよねって話(この一文で済む記事)。

個人的に、本気で世界における反出生主義の実現を目的とし消極的人類滅亡を目指すのなら、まず土台となる知性主義の潮流に寄与する方が重要だと思うし、その基盤となる社会秩序維持の為に子供を作り続けたほうが、手段としては合理的である様に思える(宗教原理主義者や共産主義者のコミュニティーばかり生き残っちゃ意味がないから)。

しかし、じゃあ反出生主義者が「いずれ人類が滅亡する為に今のところは子供を作ろう!」となるかと言えばならないだろう。そんな形で子供を作る人はたぶん誰一人いない(本末転倒だからね)。手段としての出生は、反出生主義者が一番忌み嫌う所だろうから。

ていうかそもそも、人類存続にしろ人類滅亡にしろ、そんな大義を自身の生活の中で意識している人などどれだけいることか。反出生主義じゃない人(出生主義者?)も、子供が欲しいから作るのであって、別に人類存続の為に子供を作る訳でもないだろう。

だからそんな「主義思想の実現」なんて話は、哲学者や作家たちの中で、理想論として取り上げられるに過ぎず、実存的な話としてはあまりに遠すぎる(ベネターも補足みたいにしか取り上げてなかったっけ?)。
このことを真剣に議論する時が来るとすれば、人類及び生命の存在に一般大衆が懐疑する段階になってからだ。。
でもこういう話を考えるのは面白いよね。

まぁそんなこんなで適当に書いた記事でした。おしまい。

ハトの餌になります。