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DD54 6次車 JR西日本 後藤総合車両所仕様

今回は前々からやりたかった題材として、21世紀まで生き残ったDD54をテーマに取り上げてみました。

◽️前置き
鉄道史を紐解くと、DD54は以下のように評されます。
①「日本の技術が未熟だったために西ドイツの精緻な構造を管理しきれなかった」
②急行おき号牽引時の推進軸落下横転事故を論って「欠陥機関車」である
③エンジン、変速機を外国製としたのに対し足回りをDE10の2軸台車などコストダウンのための共通部品としたことで機器の最適化ができていなかった
…などと西独の技術を日本が使いこなせなかった点や設計段階での問題を孕んでいたことがクローズアップされがちです。
しかし、詳しく調べてみると、事はそう単純ではないようです。
実際のところ、初期故障に関していえば20数件とDD51と比較して非常に優秀で、初期故障も70年代にはほぼ克服していました。
DD51は200件を超える初期故障を抱えたまま見切り発車し、運用しながらマイナーチェンジを繰り返した結果故障の少ない堅実堅牢な機体が出来上がった経緯があります。DD54登場当時の段階では確かに故障の少ない機関車でしたが、この評価はフェアではないと思います。
それに、元々DD54のような単発機(発動機=エンジンが1つという意味)が求められた背景には、DD51が技術としては改良を重ねに重ねた旧型双発機のため、エンジン2つに変速機2つを整備せねばならずランニングコストが問題視されていたからで、DD54が失敗作の烙印を押されるのを横目に単発機実現のため開発が進められ「最強機関車」DE50が開発されていたわけです。
日本の技術は決して劣っていたわけではなく、国鉄と三菱商事の事業の進め方、現場への受け入れ態勢の準備などを怠ったことが主因と考えられます。
西ドイツ企業とのライセンス契約に問題があったというのも、国鉄と三菱商事の営業上の問題です。
極め付けは、共産党員による与党追及の材料として西ドイツ製技術を使用したDD54のトラブルが針小棒大に取り上げられ、これがDD54の運命を決定づけてしまったと言えます。
こういう観点から言えば、車齢の若いDD54の急速な幕引きの背景にあるのは、技術的な問題というより極めて政治的な理由にあるのではないか……などと思えてくるわけです。

◽️登場背景
DD54が「欠陥機関車」の烙印を押され、山陰本線や播但線での役目を取り上げられ始める一方で、1970年に1両の新型機関車がロールアウトしていました。
その名はDE50。純国産技術により出力2000PSを誇る新規設計のターボチャージャー付き16気筒エンジンDMP81Zを1機搭載した単発機で、合わせて開発されたDW7形新型変速機、DW7形の真骨頂ともいうべきハイドロダイナミックブレーキとその実現のための大型ラジエータを備えた本線貨物用機関車です。
DE50は稲沢第一機関区に配置され中央西線にて先行量産機DE50 1の試運転が開始されました。1号機の各種試験後に量産が予定されていましたが、電化路線拡大により2年で岡山機関区に転属。その後は伯備線で貨物牽引の試験運用についていました。しかし、非電化区間での将来的な輸送需要の低下を前に計画の方向転換が検討され始めており、計画は頓挫するかに見えました。
DE50は2次車よりSGの搭載が予定されていました。その理由としては、貨物需要は頭打ちであり、旅客用としても使えるようシフトした方が用途が広がるのではないかと考えられていたのが理由です。
しかし、DE50 1はSG非搭載で、2号機以降車体の再設計を余儀なくされることが懸念点として残っていました。
そこで、白羽の矢が立ったのがDD54です。
開発したDMP81ZをDD54のマイバッハ社製DMP86Zの代わりに載せ替える案が出されたのです。
動輪5軸のDE50に比較すればDD54は4軸であり粘着性能の低下は避けられず、ハイドロダイナミックブレーキの導入は改造費用の面で実現はできません。
ですが、本機開発のメインストリームである、単発機で運用可能な本線用機という観点から妥当と判断されたようです。

◽️純国産化改造
かくして、DD54への機関、変速機の換装が進められることになりました。
機関はDMP81Z(2000PS)、変速機はハイドロダイナミックブレーキ機能をオミットされたDW7Bとされ、SGは従来型のままです。台車はDE50でも使用実績がありDD54用にも使用されていたDT131を元に歯数比調整されたDT131Fとされました。

改造は1974年より順次進められ、製造間もない特急牽引機だった6次車より優先的に換装が行われ、1978年までに全機の換装が完了しました。

純国産化改造機は識別として運転台下裾、車体側面ナンバープレートに高さを揃えた白帯が配され、ナンバー横は斜めに切り落とされたデザインとなりました。

◽️運用
純国産化改造後、DD54は山陰本線、播但線、福知山線で客車優等列車を中心に運用復帰しました。
寝台特急出雲の20系客車時代に特急牽引機として活躍していましたが、1972年ー1973年の1年余りの活躍ののち、運用をDD51に引き継ぎ退いていました。
純国産化改造を施され24系客車への置き換えが行われると同時にDD54が復活した事は、当時鉄道ファンの注目を集めたようです。
出雲は1978年に2往復となり出雲1・4号が24系25形化され、出雲2・3号は14系による運行になったため、運用はDD51との共通運用となり、1・4号がDD54、2・3号がDD51の運用となるケースが多く見られました。
1998年に2・3号が285系電車化されると、残る出雲の運用はDD51と共通となり、
晩年はDD51 1121 1186 1187 DD54 33 35 37 による運用となりました。
2006年3月18日に出雲が廃止された後、35,37号機は現在も後藤総合車両所に在籍し、工臨や臨時列車運用に使用されています。
33号機が京都鉄道博物館に展示されているのは皆さんのよく知るところでしょう( ̄∇ ̄)

なんてね( ̄▽ ̄;)

◽️その他の改造
純国産化改造のほか、以下の改造が施工されています。
①雪害防止のため、ホイッスルカバー設置(1975)
②運転台への扇風機設置のため、屋上に扇風機カバー追加(1978)
③JR無線アンテナ設置(1986)
④黒Hゴム化(1991)

◽️模型



ベースはKATO DD54ブルートレイン牽引機です。
形態は晩年の寝台特急出雲牽引機として活躍する姿をテーマとしました。
JR仕様のDD51やEF65PFと並べたかったのです。
加工は以下の通りです。
①屋根
加工の中心です。DD54はEL寄りの造形のため、DLよりもELの装備や特徴を取り入れてみました。
 ・EF65PFジャンクより扇風機カバーを摘出し、削り合せの上で運転台上へ設置しました。
 ・ホイッスルは取り外し、手持ちの電機用カバー付ホイッスルに交換しました。
 ・DD51やEF65PFなどを参考に無線アンテナを取り付けました。
 ・屋根全体をねずみ色1号で塗装し、墨入れ等ウェザリングしています。

②ボディ
加工はJRマーク貼り付け、帯貼り付けと区名札貼り付け、ウェザリングが主です。
白帯は野暮ったくならないように当時の国鉄電機やこれまでのディーゼル機を参考にしてみました。
JRマークはEF64-1000と似た窓があるので、窓間に貼ってみました。使用したのはキハ58用の余りです。
機関換装はありましたがスペース、機能ともに似通った形にしたので特に外観への修正はありません。

汚しは、晩年のDD51は手入れをされていたので、汚れは最小限に陰影をつけるように施してみました。

以上、長文失礼いたしましたm(_ _)m


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