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「船員教育発祥之地」(東京海洋大発祥の地)

三菱が作った日本最初の商船学校

★ジャンル【学校】【産業】
★場所 中央区新川1-31-8
★最寄駅 東京メトロ茅場町駅

これまでの23区発祥の地一覧

★碑文
「内務卿大久保利通は明治政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎彌太郎に命じて、明治八年十一月この地に商船学校を開設させた。当初の教育は、その頃隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流の水域に、成妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。 爾来百年、ここに端を発した商船教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承せられている。」

★解説
 永代橋西詰め南側の植え込み内に碑があります。この近くに係留された船が、東京商船大学、現在の東京海洋大学海洋工学部の前身となっているわけです。
 海に囲まれた海洋国でありながら、明治初年の日本は近代的海運業を営むにはあまりにも船員の数が少なく、日本と諸外国を行き来する商船員のほとんどは外国人でした。こうした状況を打開しようと大久保利通(おおくぼ としみち)は岩崎弥太郎(いわさき やたろう)に協力を求めて船員学校を開講させたわけです。
 三菱財閥は当初は海運業で巨利を得て躍進します。そのきっかけは1874年の台湾出兵です。これは台湾に漂着した宮古島漁民54人が殺害された報復に出兵したもので、当時の清国との大きな外交問題になりました。征韓論に反対しておきながらこの出兵を主導したのは大久保利通であり、大隈重信(おおくま しげのぶ)でした。
 政府は当時圧倒的に輸送量の多かった外国商船に兵員輸送等を依頼しますが、国際紛争での「局外中立」を守る方針から断られ、仕方なく新興海運業者の三菱に船を与えて輸送を図ります。
 これが順調に進んだため三菱・岩崎と大久保・大隈の間に深い関係ができ、前述のような商船学校開校依頼となりました。台湾出兵は1874年で、開校は翌年です。当時は三菱会社が茅場町にあり、近かったこの場所に船が係留されていたのでしょう。1881年には係留地近くに校舎を作ります。
 この三菱商船学校は1882年に国立となり東京商船学校となります。1925年には東京高等商船学校となり、戦時中に神戸、清水の学校と統合されてただ

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