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都心に現れる「境界未確定地」

23区全区境踏破第12回

「23区全区境踏破」の記事一覧

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前回、2018年に完成した「竜閑さくら橋」を眺めて終わりました。
橋の袂は小公園になっていて、橋の名の通り桜が植えられています。
歩行者専用橋と書きましたが、たいへん有用な橋です。
この橋が架かることによって、神田地区と大手町地区の回遊性が一気に上がりました。
まず、大手町に勤める人の通勤駅として「神田駅」が選択肢に入るようになりました。
大手町の最寄りJR駅は東京駅ですが、結構遠いですし、東京駅構内は広くて混雑します。
それがこの橋ができたことで、神田駅もかなり近くなったのです。
そしてもう一つ大事なのがお昼。
大手町地区のオフィスビルにも飲食店街がありますが、慢性的に不足している上にやはり場所柄お高いです。
キッチンカーなども出ていますが足りません。
ところがこの橋ができたことで、お安い神田地区の飲食店に行くことが可能になったのです。
橋一つで何万という人の生活利便性が向上したわけで、素晴らしい公共事業です。

千代田区などはこの日本橋川の両岸を緑道とし、歩いて回遊できる軸にする事業を進めています。
「竜閑さくら橋」の少し上流、鎌倉橋の上手に、丸の内仲通りから一直線に繋がる形で日本橋川にもう一本歩行者専用橋も建設中です。
水辺の緑道は将来的には九段下あたりまで繋がるものと思われ、下流の首都高撤去、日本橋地区の両岸の緑道化と合わせ、完成が楽しみです。

さて、橋を渡ってしまうと千代田区のかなり内側に入ってしまい、区境に戻るのも遠くなるので、橋の中間ぐらいまで行って、日本橋川を跨ぐJR高架についている「大正七年」と書かれたエンブレムを見て戻りましょう。

区境は日本橋川の中間ですが、歩けないので中央区側をJRのガードに向かって歩きます。
新幹線、上野東京ライン、山手線、京浜東北線など関東の大幹線が通っているこのガードは、「常盤橋架道橋」と言います。
ここをくぐります。
ガードの土台の表面は煉瓦造りのように見えますが、これは東京駅から南の明治の高架に外見を合わせたもので、中は鉄筋コンクリートです。
ガードを出た左の車道の橋が「新常盤橋」で、渡らずにまっすぐ行きます。
左手に日本銀行が見えてきて、その右手にレトロな石の橋が現れます。
これが「常磐橋」です。
さっきは「盤」、こっちは「磐」。
「般」の下が「皿」と「石」の違いです。
「常磐橋」の向こうには石垣が見えます。
江戸城外堀にあった江戸城の「常盤橋門」跡です。
あれ、神田川が江戸城の外堀と言ってきました。
なのにどうしてさらに内側に「外」堀があるのでしょうか?
実は江戸城の外堀はよくカタツムリに例えられるのですが、巻貝の殻のように「の」の字を描いて内堀の周りを巡っているのです。
その出発点は九段下あたりで、今の日本橋川にあたります。
そこから一ツ橋、神田橋を経て、この常盤橋につながり、銀座、霞ヶ関方面から赤坂、四谷とぐるっと回って飯田橋で神田川に合流していました。
ですからこのあたりでは外堀は二重になっていたのです。

常磐橋

常盤橋は日本橋ができるまでは江戸の中心の橋で、日光街道はここから出発しており、また日本橋の町割りの基準となっていました。
現在の橋は明治になって常盤橋門の石なども利用して築かれた石橋です。
東日本大震災で大きく損傷し、十年近い工事でようやく歩行者が渡れるように修復され綺麗になりました。
区境はもちろん橋の真ん中を通っています。

そうそう、「皿」と「石」の違いはなんでしょうか?
関東大震災で東京の多くの橋が大被害を受けました。
石造の常盤橋ですが「橋の名に皿がついていては割れてしまう」と漢字を「磐」に変えたと言います。
しかし震災復興橋としてできた下流の新しい車道の「常盤橋」は「皿」のままですから、古い橋と新しい橋を区別する工夫だったのかもしれません。
常磐橋を渡った先の「常盤橋公園」には新一万円札の顔、渋沢栄一の銅像があります。

日本橋川沿いに進んでいくと、「常盤橋」を過ぎてすぐに一石橋があります。
江戸時代にはこの橋の手前南側に外堀が続いていました。
また右手方向にも「道三堀」という堀が続いており、ここは堀の十字路でした。
ちなみにこの道三堀が現在の大手町と丸の内の境の元となります。
区境は江戸時代の外堀でしたので、一石橋の手前を東京駅八重洲口方向に進んで行きます。
橋の右側を渡ると、渡ったたもとに「迷子しらせ石標」があります。
これは江戸時代の迷子受け渡し掲示板で、迷子を出した親と迷子を預かった人が紙で掲示を張って受け渡しをしました。
それほど江戸の街は混雑していたのですね。
江戸には同じものが何か所かにありましたが、当時の場所にそのまま立っているのはここだけです。

迷子しらせ石標

一石橋を渡って外堀通りを進むと呉服橋交差点です。
橋などどこにもありませんが、右側を通っていた外堀に、戦後すぐまでは呉服橋がかかっていました。
これも江戸城の外堀の門が由来で、解説掲示が交差点を右に曲がった「TOKYO TORCH」の前の歩道にあります。

で区境はどこかというと、実はわかりません。
えええーっ、ですよね。
なんでこんな都心のど真ん中、千代田区・中央区の境がわからないって、ふざけなさんな、という話ですが、正確にいうと、わからないのではなく決まっていないのです。
これまた、えええーーっですが、かつての麹町区と京橋区の境は外堀の真ん中でした。
この外堀は敗戦直後、戦災瓦礫の処理のために埋めてしまったのです。
その際にきちんと測量などして境界を決めておけばよかったのですが、曖昧なまま必要に迫られて埋めてしまい、正確な境がどこかわからなくなってしまいました。
この先、新橋駅近くの土橋交差点あたりまで、かつての外堀を埋めた部分は境界は未確定です。
だいたいの境を決めて管理は両区で分担しているようですが、かつての堀上に建っている西銀座デパートや銀座ファイブには厳密にいうと住所がありません。
こんなところに戦争の影響が今も残っているのですね。

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