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「鉛筆の碑」(三菱鉛筆創業地)

グループでないのになぜ「三菱」なのか

★ジャンル【企業】
★場所 新宿区内藤町1
★最寄駅 東京メトロ丸ノ内線新宿御苑前駅、四谷三丁目駅

これまでの東京23区発祥の地一覧

★碑文
「この地(多武峰内藤神社西方付近)は、明治二十年(一八八七年)に佐賀藩出身の真崎仁六が真崎鉛筆製造所(現・三菱鉛筆株式会社)を興し、鉛筆の製造を始めたところです。三十年後の大正五年(一九一六年)に品川区東大井に移転するまで、ここで鉛筆製造を行っていました。創業時は玉川上水の分水であり、現在は暗渠となっている渋谷川を利用した水車を動力にして、ここで鉛筆が作られていました」

★解説
 外苑西通りと新宿御苑に挟まれた内藤町の一角、多武峰(とうのみね)内藤神社に接した内藤児童遊園内にあります。
 公園から少し離れた西側には今も渋谷川の跡が幅の広い水路跡としてのこっています。当時の住所は四谷区内藤新宿1番地でした。現在の1番地もそうなのですが、かなり広い範囲を指しており、細かくどのあたりかはよくわかりません。
 明治の初期、まだ鉛筆は「木筆」と呼ばれていましたが、「鉛の筆」ということから、「鉛筆」の語が生まれたようです。当時はまだ黒鉛が炭素の結晶ではなく、鉛の一種と思われていたからです。今でも誤解している人がいますが、鉛筆の芯に鉛が使われたことはありません。なめても大丈夫です(なめなくていいですけど)。
 木の間に黒鉛を挟んで筆記用具とすることは、ヨーロッパではすでに17世紀始めに行われており、これを輸入した徳川家康や伊達政宗の鉛筆というものが現存します。しかし日本には毛筆の文化があり、携帯用の矢立なども普及していたため、鉛筆は広まりませんでした。
 日本で本格的に鉛筆が使われ出したのは明治に入ってからですが、やはりあまり普及せず、製造者もいくつか現れるものの、現代まで存続している企業は三菱鉛筆が最古です。国内で本格的に鉛筆が使われ出すのは1920年頃、

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