見出し画像

「由来記」「江東みちしるべ」(地名深川発祥の地)

移住民の名だった「深川」

★ジャンル【地名】 
★場所 江東区森下1-3-17
★最寄駅 都営地下鉄森下駅

これまでの23区発祥の地一覧

★碑文
(由来記)
「今カラ凡ソ四百余年ノ昔深川ノ地ハ、葦ノ茂ル三角洲デ住ム人モ無カッタ ソノ頃深川八郎右衛門ト云ウ人ガ一族ヲ引連レコノ一帯ヲ開拓シタ 八郎右衛門ハ敬神ノ念篤ク、崇敬スル伊勢皇大神宮ノ御分霊ヲ奉斎シテ、開拓民ノ福祉ト当地ノ発展ヲ祈願シタノガ深川神明宮ノ初メデアル ヤガテ徳川家康公ガ江戸ニ入府、慶長元年当地ヲ巡視シ八郎右衛門ヲ召シテ地名ヲ尋ネタ 未ダ住ム人モ少ナク地名モナキ由答エルト、家康公ハ八郎右衛門ノ姓「深川」ヲ以テ地名トセヨト命ジタ 深川ノ地名ノ起コリハ、神明宮ノ鎮座スル実ニ此ノ地ナノデアル 爾来深川ノ地ハ江戸ノ繁栄ト共ニ発展シ、当宮モ「深川総鎮守神明宮」ト称エラレ、多クノ崇敬ヲ集メルコトトナッタ ソノ間ニハ震災戦火ノ大キナ災禍ガアッタガ 氏子万民ノ赤誠ヲ以テ昭和四十三年ニ御社殿御造営モ成リ、衆庶ノ崇敬益々旺ンデアル 今般、郷土和楽万民繁栄ヲ祈念シテ御鎮座四百年祭ヲ斎行スルニ当タリ、今日ノ繁栄ノ礎ヲ築イタ郷土ノ先人ニ感謝シ、当宮ノ由緒ヲ茲ニ記ス」
(江東みちしるべ)
「深川神明宮(寿老人) この辺一帯は、慶長年間(1596~1614)に摂津国(大阪府)の深川八郎右衛門ほか6人が新田を開拓し、八郎右衛門の姓をとり深川村と名付けられた、深川村発祥の地です。八郎右衛門は持地内の小祠に神明を勧請したと伝えられ、これが深川神明宮です。のち、現在の新大橋・常盤・高橋・森下・猿江・住吉あたりの開拓が進み、八郎右衛門は代々名主をつとめました。深川七福神のひとつ(寿老人)として親しまれています」

★解説
 都営地下鉄森下駅から、最寄り出口からですと清澄通りを南に下って西に入ると2分ほどで深川神明宮に着きます。立派な巨石の「由来記」は鳥居左手に、「江東みちしるべ」は鳥居前の歩道上にあります。
 現在の江東区にあたる地域は、徳川家康入府以前はほとんどが人の住めない場所でした。当時は利根川が東京湾に注いでおり、その河口部三角州の湿地帯だったのです。江戸時代より前からの由緒を持つ寺社がほとんどないことでそれがわかります。
 しかし上流から運ばれる土砂で徐々に土地は南に広がっており、家康が江戸に入ってから、埋め立てや水路開削が行われて開発が進められることとなります。
 最初の画期は小名木川の開削です。これは家康が江戸に入った1590年ごろからすぐに進められました。隅田川の河口部分から、中川の河口部分まで一直線の水路を開くことで、房総や常陸、さらに関東内陸との水運の便を図るためのものでしたが、この幅広の水路を切り開くことで、湿った土地からの排水が進み、北側を開墾できるようになったのです。また水路を掘った土はかき上げられ、土地を高くするのに役立てられたことでしょう。
 おそらくこの時に、家康が先進農業地帯であった関西地方から農民たちを招いて新田を開かせたのでしょう。「みちしるべ」にある「新大橋・常盤・高橋・森下・猿江・住吉」はかなり広大な地域で、農民には大きな魅力でした。

これより有料です。以下には記事全文のほか、写真、地図、関連情報リンクなどがあります。ご購入いただく場合、この記事だけで100円お支払いいただくより、マガジン「東京23区発祥の地めぐり」全体を500円でお買い上げいただく方がお得かと思います。最終的に数百本近い記事をご覧になることができます。よろしくお願いします。

ここから先は

702字 / 4画像
この記事のみ ¥ 100
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?