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「芝浦球場跡地 日本初のプロ野球チーム発祥の地」

震災で行き詰まった「日本運動協会」

★ジャンル【スポーツ】
★場所 港区海岸3−14−34
★最寄駅 ゆりかもめ芝浦ふ頭駅

★碑文
「大正10年3月(1921年)、「日本運動協会(通称」芝浦野球協会)」の本拠地として、この埠頭付近に芝浦球場」が建設されました。「日本運動協会」は、選手が野球をすることで報酬を得る「職業野球」を日本で初めて試みたチームでした。当時の資料によると、広さは約6千坪(約20、000㎡)、バックネット裏と1・3塁側の内野の3箇所にそれぞれ2千人が入れる木造のスタンドがあり、他に外野の立見席を合わせると約2万人の観客を収容することができました。右翼の塀の外側には、球場の附属設備として6面のテニスコートとクラブハウス(兼、日本運動協会合宿所)が設置され、クラブハウス内には浴室、集会所、食堂などがありました。「日本運動協会」は結成から約1年間試合を行わなかったため、当初は早稲田大学野球部のOBチームである稲門倶楽部と慶応義塾大学野球部のOBチームである三田倶楽部との試合が主に行われました。大正12年(1923年)9月の関東大震災後、芝浦球場は戒厳司令部によって救援物資の集積場として徴発されることとなったため、試合の続行が不可能となり、大正13年(1924年)、「日本運動協会」は解散。その後芝浦球場も閉鎖されました」

★解説
 プロ野球がこんなところで始まったなんて、「ええー」と驚く方が多いでしょう。「ジャイアンツじゃないの?」と思われる方も多いでしょう。
 「南極探検記念碑」もある港区立埠頭公園には少年野球場があり、そのクラブハウスの壁に沿って掲げられています。実際の芝浦球場はもう少し北東の倉庫が建ち並ぶ当たりにあったようです。
 明治になって野球が日本に入ってくるとその人気はたちまち高まり、特に大学野球が非常に盛んになります。その大学野球のOBたちが、野球をすることで報酬を得る職業野球を実現しようと作ったのが1920年に設立された日本運動協会であり、芝浦球場でした。
 中心になったのは、当時の大学野球界の中心的存在だった早稲田大学OBの河野安通志(こうの あつし)でした。河野は投手として日本初の大学野球アメリカ遠征を行い、「鉄人河野」の異名を取りました。訪米中にメジャーリーグでの登板勧誘を受けており、この時に「職業野球」の構想、ノウハウを得たものと思われます。
 解説板には1年間試合をしなかったとありますが、多数の応募者から選ばれた選手たちはこの球場内の合宿所で練習に明け暮れていただけななく、簿記などの勉強にも励んでいたそうです。人気だった大学野球の選手らに知力で負けないように、またその振る舞いが今後の職業や求人の模範となるように厳しく精進していたといいます。
 ようやく1922年(大正11年)になって地方遠征を開始し試合を始めます。ここで実力を示したため、当時最強と言われていた早稲田大学との対戦が実現し、下馬評は早稲田の圧勝と思われていましたが、健闘し1−0での敗戦となりました。
 この結果協会の評価は俄然上がり、各地のチームから試合申し込みが相次

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