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「日清紡績創業の地」

投機的動機で始まった日清紡

★ジャンル【企業】 
★場所 江東区亀戸2-6
★最寄駅 JR、東京メトロ錦糸町駅

これまでの23区発祥の地一覧

★碑文
「日清紡績株式会社は明治四十年一月創立後、東京府南葛飾郡亀戸町の当敷地二万余坪に、最新鋭設備を誇る本社工場を建設した。最盛時には、紡機一〇七、八〇〇錘、織機三六〇台を擁した本工場は、昭和十六年軍の要請により陸軍被服本廠が使用するに至るまで、四十五年に亘り主力工場として綿糸布を生産し、広く内外の需要に応えると共に、幾多の人材を輩出した。この間明治四十三年、大正六年、昭和十三年の三たび横十間川の洪水で浸水し、大正十二年には関東大震災に遭ったが、従業員の献身的努力によりこの職場を守り得た。昭和二十年大戦下の空襲により焼土と化したが、運動場として整備し主として勤労青少年の体育に寄与してきた。偶々昭和四十二年東京都浄水場、日本住宅公団用地として提供するに至り、当社の手を離れた。今般この地に記念碑を建立し会社創業関係者の遺徳と、生死苦楽を共にした多数従業員各位の功績を偲ぶものである」

★解説
 錦糸町駅から歩いて横十間川を渡り、10分ほどの川べりにあります。都の亀戸給水所とURの住宅との敷地境あたりにあります。斜向かいには古銭の形をしたモニュメントのある「亀戸銭座跡」の碑が歩道上にあるので目印になるでしょう。
 紡績とは短い繊維を「紡いで」糸にすることです。良質の絹糸などを除いて、麻、羊毛、綿などいずれも布に織る前にこの糸にする作業が必要です。
 日本では江戸時代以降綿織物が衣服の主要繊維になりますが、鎖国をしていたこともあり、国内で生産できる綿花の量には限りがあり、綿織物は高価で貴重なものでした。庶民は新品の織物の服を着ることはほとんどなく、古着を着たり、端切れを縫い合わせた服を来ていました。綿が貴重なため、綿入りの布団などは大金持ちだけのものでした。
 これが明治以降になると、貿易が自由になったため大量の綿花や綿織物が輸入され、江戸時代よりは綿織物が身近になります。しかし明治政府は国内の綿業農家保護のため綿花には輸入関税をかけ、逆に綿糸を輸出するには輸出税をかけて国内綿織物業者を保護しました。
 この結果日本の紡績業は国際競争上不利な立場にありました。このため業界団体はこれらの関税の撤廃を働きかけ、これを「両税廃止運動」と称しま

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